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考える人 - 2004/04/18 [ Sun ] (2)

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考えすぎは良くない。

って、この前友人に言われました。他人の頭の中を覗いてみて他人が自分と比べてどのくらい『考えている』のかなんて比較は出来ないので、実際に俺が『考えすぎ』なのかどうかはわかりません。俺は、口に出す、文章にするなんてことを積極的にしてしまう傾向が強いので、それによって『考えすぎている』ように見えるだけかもしれないしね。

とりあえず言えることは『考えすぎてはいけない』って意識するとそれをまた考えるから結局同じなんだよね。いや、同じじゃないか。むしろ、かえって体によくない気がしないでもない。自分で自分にストレスをかける感じになるから。考えたいなら考えりゃあ良い。それが他人との比較で『考えすぎ』かどうかはまた別として、考えずにはいられないんだったら考えてしまえばいいんじゃないかって今は思ってます。

けど同時に、ひとりで考えるのには限界があるというのも痛感しています。ひとりでいくら考えても同じところをグルグル回ってしまうんです。言葉や捉え方の角度は多少変化するんだけど、根本のところはちっとも先に進まない。輪の中を延々と回っているだけ。そこにハマり込んで『自分は考える人だ』なんて思い込むと、色々考えているはずなのに、誰よりも考えの浅い人間になっちゃうんだと思います。

その辺を踏まえて冒頭の友人の言葉の意味を改めて考えてみて思ったのはね。『考えすぎる』ってのは他人との比較の話ではなくて、自分の頭の中にある限界を超えることなんだろうなってことです。その限界ってのは人それぞれ違うけども、前述したように頭の中でループが始まる瞬間がまさに自分の限界であり、それに気づけるかどうかってのは至極大事なんだろうと思います。

『考える人』を気取って、人それぞれ許容量が違っている『自分の限界』ってヤツが自分の場合はどの程度なのか気づかないままでいると、そのままループしっぱなしで、しかもそのループの大きさを成長させることが出来ない。というかループしていることにすら気づかない。そして底の知れた人間になっていく。俺は『考えすぎる』、『物事をよく考える』という表現を他人との比較の言葉として捉えていた部分があるのだけれど、『考えすぎは良くない』という友人言葉のをキッカケにして、改めてそのことについて考え、その言葉の意味を『自分だけで考え得る限界を超えて考え続け過ぎることは良くない』という風に解釈しました。

そして、その友人の言葉が自分に注入されたことがキッカケとなり、今までループしていた『考えすぎる=他人との比較が前提』という固定観念から、また少し違った考えが生まれたこと自体が、『自分の限界』というヤツの許容量を広げるためには外部の助けが絶対に必要であるということのひとつの例になっていることにも気が付きました。

良い意味で前進出来る『考える人』というのは自分の中で思いを巡らすだけの人ではなく、外部からの助けを素直に受け入れながら、『自分の限界の輪』の大きさを少しでも広げていける人のコトなのではないか、なんて思う俺なのです。だから、人との関わりをあまり持たずに考えを巡らせて、挙句の果てに狂って死んでいった有名な何処かの哲学者や思想家、悟ったような顔をした宗教家の言うことを盲目的にリスペクトしているような人は嫌いだし信用できません。哲学や思想に答えなんか無いし、それを模索すること自体が人生なんじゃないかしら。

人がひとりで生きていくのは多分可能です。内容はともかくとして。けど、人が思考の部分で新たな発見をする為にはひとりでは絶対に限界がある。そしてそれにゴールなんて無い。何かを悟ったつもりになってそれで満足しているといつかまた頭の中でループし始め、その上それに気づくことが出来なくなる。ここでいう本当の意味での『考える人』は答えを見つけてしまうなんてことはきっとない。けど、自分の限界を知りその限界の許容量を広げる為の試行錯誤を忘れない。外部からの刺激を常に求めている。

俺はそれでこそ『考える人』だと思います。



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