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 ■[ Column ] 2006/03/02 [ Thu ] - 無責任で行こう



最近とても大事だなと感じることがあります。

それは『無責任さを忘れるな』ということ。俺はとても待遇の悪い会社で働いていました。そこでそれを痛感しました。目の前のコトに一生懸命ぶつかっていくのはもちろん大切なことだと思います。それも忘れちゃいけないことです。というか、それは殆どの人が意識しなくともわかっていることなんじゃないかな。

けど、ある程度の無責任さを保つことを忘れてしまうことって意外と多い気がします。仕事に追われて必死になりすぎて自らを追い込んでしまう。俺は今日付けで前述の酷い待遇の会社を辞めました。今は違う会社で働いています。前の会社にはとても生真面目で誰よりも働いている人がいます。ここでは仮にMさんとしましょうか。

Mさんはとにかく自分からどんどんすすんで仕事をやろうとします。とにかくガンガン攻めの姿勢で頑張って働いています。その部分は大したもんだなと素直に思います。でもね。その会社ではどんなに寝ないで働いても手当ては全く出ません。そして正当に人を評価できる人もいません。会長と社長がセコイ上に人を正当に評価できる能力を持ってない。

さらに、その人は基本給がとても安く奥さんと子供を養うには今の給料では間違いなくギリギリだと思います。その中で目の前のことを頑張ればお金のことなんか後からついてくるんだと信じて(本人が俺にそう言ってました)がむしゃらに働いています。

俺はそんな彼を『たしいたもんだ』とは思っているけど別段尊敬はしていません。確かに頑張ってるなとは思うけど、俺は彼に『生真面目過ぎて損をするタイプ』という印象を持ってます。残念ながら世の中は頑張れば必ず報われるわけじゃありません。だからって最初から頑張らないってのはそりゃ問題外だけど、頑張りながらもその中で『押し引き』ってのを見極めないと必死でやってるうちに別の大事なもんを無くしてたりするんですよね。

そこである程度の無責任さってのがとても大事だと思うんです。気持ちに余裕を持つと言うと『それが出来りゃ世話ないよ』と言われてしまうかもしれないけれど、ある程度無責任でいればいいと言えば何となく出来そうな気がしません?

あまりにも理想的なものを求めすぎて『頑張ればきっと報われる!』と頑なに信じ、自分にとって必要なモノとそうでないモノを見極める余裕をなくし、目の前にあるもの全てにぶつかっていったら、報われるどころか損をしてしまうことの方が多い気がします。社会人として働くってすっげー大変なことだけど、単に大変なのではなくあまりにも無茶な状況に陥ったとき、その原因がどこにあるかが重要なポイントだと思います。

つまり、それが果たして頑張って報われる類のものかどうかってことです。所属している会社が根本的なところから腐っている場合、まずはそこを何とかしないと頑張っても報われない可能性が高い。俺の場合は前の会社で働いているときに『このままここにいたらマズイ。』と強く思いました。

自分の力で会社を変えるなんて無茶なことは考えず、何とかしてもっとマトモなところに行こう!と考えました。だって親子でやってる会社を部外者が変えるなんて無理だもん。何もそんなところで理想を追い求めることもないんじゃないのかなと考えました。

そこで『ある程度』無責任な部分を自分の中に残しておいた。基本的には一生懸命仕事をしたつもりだけど、常にその意図的に残しておいた『無責任さ』を使って仕事への取り組み方を調節してました。その結果、新しい会社へのキップを手に入れました。

前の会社では現場で時間があるときにこっそり資格の勉強をしました。会社を車で出たときもすぐには会社に戻らないで、目立たないところに車をとめて勉強をしました。そのおかげで一発で試験に受かりました。

Mさんはそういうことをする人をきっと最低だと言うでしょう。というか一回勉強してるのがバレて『自分的にはそれでいいかもしれないが会社としてそれじゃこまるだろ』と言われたことがあります。それでもずっとトボけて勉強してましたけど。だってあんな会社自分にとって踏み台でしかないもん。今後どうなろうと知ったこっちゃない。

そして資格取得後は仮病とか身内の事情とかを持ち出して、しれ〜っと会社を休んで面接と入社試験を受けました。やらなきゃいけない仕事はまじめにこなしながらも絶対譲れないところは強引にでも時間を作った。そしてサクっと採用されました。そして前の会社には見切りをつけました。辞めるコトをMさんに話したときに『裏切られた』、『期待してたから一生懸命仕事を教えたのに』、『仲間だと思っていたのに』と延々説教されたけど全然気にしてません。

その会社は現在、儲からない割りに手間ばっかりかかる仕事でメチャクチャ忙しいです。Mさんはそんな中とても頑張っています。3週間以上日勤と夜勤を絶え間なく連続でやってる感じです。そのうちぶっ倒れるんじゃねーの? そんな風に会社の為に頑張るのも良いですけど、それってどうなんだろ。そんだけ頑張ってもあの会社じゃどーにもなんないと思うけどな。

本人はそれに納得してるんだから別に良いけど、俺はそういう風に生きていくつもりはありません。Mさんには納得して一生懸命になれる会社かもしれないけど俺にはそうじゃなかった。だから俺は自分にとって『程よく』無責任に振舞ったわけ。で、Mさんは自分の理想を他人にも押し付けるから正直すげー嫌いでした。

彼の言い分は言葉だけ聞いてるとメチャクチャ綺麗なこと言ってるんです。『義理人情というものは大事にしなくちゃいけない』とか『努力することが大事』とか『会社への礼儀としてもっと頑張らなくちゃいけない』とか。

言ってることは間違ってないと思うよそりゃ。つーか、いい大人なんだからそんなもんわかりきってるコトだよ。けど、そんな綺麗な道徳の時間みたいなことだけで世の中は動いちゃいない。それを延々説教されてもアホくさいだけだよ。そういう道徳的なコトは大人ならみんな知ってる。

けど、現実は色々な要素が絡み合ってそんな単純に語れるもんじゃないって気付いていくもんじゃないのかな。だからMさんが得意気に説教をすればするほどアホに見えてしかたなかった。自分にとって大事なものに対して責任を果たすってのは一般的な道徳を常に貫くこととは全く別だと思うんだけど。ましてやいい大人が他人にそれを説教するなんてアホ丸出しじゃないか。

自分なりの理想を持つのはとても大事だと思う。それに少しでも近づけるように努力するのも大事だと思う。けど、一般的な道徳心をエラソウに説教されてもね。理想を持つってーのはそういうのとはまた違うだろ。

俺はやはり自分の中にいざというときの為の『無責任さ』ってのを持って生きていくつもりです。自分が本当に大事にしたいもの、重視したいものを失わない為にね。
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 ■[ Column ] 2006/04/10 [ Mon ] - 励ますということ



人を励ますというのは誰しもがやったことのある行為だろう。しかも意外と気楽にやっていることが少なくない。だけれど、心底落ち込んでいる人を励ますというコトはとても難しい。少なくとも俺にとってはとても難しい。『頑張れ』、『何とかなるさ』、『そんなこと気にするな』、『気楽に行こうよ』・・・・・その他、お気楽な励ましの言葉は数知れず。

けど、それらの言葉は心底落ち込んでいる人にとってはとても馬鹿げた綺麗事に過ぎないのかもしれない。立場を変えて考えてみればいい。どうしようもないくらい不安で怖くて落ち込んでいる自分がその言葉をかけられてどう感じるか。

『頑張れ』だって?
何を? どうやって? それって今私が頑張ってないって言いたいの?

『何とかなるさ』だって?
何を根拠に言ってるの? 他人事だと思ってない?

『そんなこと気にするな』だって?
好きで気にしているんじゃない。それが出来れば苦労しないよ。

『気楽に行こうよ』
それが出来れば苦労しない。気楽に出来ないから困ってるんだろーが。

・・・・・。そんな風に励ましの言葉がすべて皮肉に聞こえてしまう。それが心底落ち込んでいるときの精神状態ではないのだろうか。鬱病の人に『頑張れ』などという言葉は禁句だという話を何処かで聞いたことがあるが、本当にそう思う。鬱病までいかなくても酷く落ち込んでいる場合も同じようなことが言えると思う。

『頑張れ』?
『何とかなるさ』?
『そんなこと気にするな』?
『気楽に行こうよ』?

そんな言葉をかけられても『それらが出来ないから困ってんだよ。それらが出来れば一番いいっていうのはいい大人なら誰でも知ってんだよ。知ってるけど出来ないから辛いんだろ?』という風に感じてしまいさらに落ち込み、そしてイラつくだろう。だからこそ人を励ますというのは本当に難しい行為だと思うんだ。

これは前に書いた『道徳的な綺麗事を得意げに説教する』というマヌケ極まりない行為にとても似ている。小学生を相手にするならともかくとして、いい大人を相手に誰もが知っていて反論できないようなことを延々と説いてみせることの馬鹿馬鹿しさに似ている。そんなものはみんな知ってるんだよ。知っているけどそれだけで物事が綺麗にまとまらないことが多いから生きてくって大変なんだろ? だから悩んで迷って苦しむんだろ?

自殺をはかる人をただ単純にバカと言う人がいる。死ぬ勇気があるのなら目の前の問題に立ち向かう勇気も持てるだろうと言う人がいる。それこそ究極のバカ発言だ。生きることがによりも辛いほど追い詰められている人にとって死ぬことに勇気など必要ない。生きるコトの方がよっぽど勇気がいる。そういう気持ちを理解しようとしない人が間接的に人を殺すんだろう。

同じように、落ち込んでいる人の気持ちを理解しようとしない人が気楽な励ましの言葉を口にするとさらに相手を落ち込ませてしまうんだろう。そうやって人を追い込んでいくんだろう。安易な励ましの言葉は『とっくに知っているけれど何故か出来ない。それが辛い。』という状況を嫌味のごとく改めて相手に突きつけてしまっているだけだ。そして追い込んで傷つけているだけだ。

だから『人を励ます』ということはとても難しい。結局のところ、最終的に気持ちを前向きに持っていくには当の本人がその為の力を自発的に出さなければいけないのかもしれない。所詮他人はその力を直接相手に与えてあげることは出来ないのかもしれない。自分の言葉や行動が直接的に人の気持ちを救うことが出来ると思うのはとても傲慢で自惚れた考えなのかもしれない。でも、相手が困難を乗り越える為に持っているはずの力を出しやすいようにちょっとしたキッカケを作ることくらいは出来るかもしれない。

大切な人が酷く落ち込んでいる時。そんな時、安易な励ましの言葉を口にするよりも先に、まず、落ち込んだ時の自分の精神状態や、そのとき自分に向けてかけられことのある神経を逆撫でする励ましの言葉を思い出すことが大事なのかなと思う。励ましの言葉が皮肉にしか感じられなかった自分の精神状態を思い出すことからはじめるのが大事なのかなと思う。大切な人が困難を乗り越える力を発揮する為のちょっとしたキッカケがそこに見つかるかもしれないから。

道徳や正論、そして理想。それだけが人を励まし、より良い道に導くとは限らない。それゆえに人を励ますのは難しく、そして生きていくのも難しい。最近そんなことを日々痛感する。
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 ■[ Text ] 2006/05/02 [ Tue ] - 俺なんかさ!



心底ウザイこんなヤツ。

仕事なんかで『どうだった?』と感想を聞いてくる。

『大変だった』とあくまでも自分なりに大変だったと答えると・・・。

凄い高確率で。

『馬鹿いえ。俺なんかさ!』という返事が来る。

『バカ言え!俺なんかさ! バカ言え!俺なんかさ! 俺なんかさ!』

人に自分から感想を聞いといてそのレスポンスが『自分の方がよっぽど大変な目にあってる』的なレスポンスて。

要は自分の方がずっと修羅場を潜り抜けていて、お前よりずっと優れているというのを言いたいだけなヤツ。つまり、人に質問することでそれをキッカケとして結局は自分のことを話したいたけ。人に質問を投げかけておいて結局話の主題を自分のことにすりかえてしまうヤツ。

毎回毎回。

俺なんかさ! 俺なんかさ! 俺なんかさ!


ええ。そうですね。あなたが一番です。はい。
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 ■[ Column ] 2006/08/29 [ Tue ] - 他人の気持ち



今更ながら他人の気持ちを理解するのは難しいと痛感している。多くの人が他人からアドバイスを求められたり、言葉は悪いが泣き言を聞かされたりしたことが一度くらいはあるだろう。

そんな時、ストレートに的確な言葉でズバっと答えることが必ずしもベストとは限らない。相談を持ちかけてきた人が『答えは殆ど出ているが誰かに背中を押してほしい』と望んでいる時は確かにそれでもいい。

しかし、相手が本当に悩んでいる場合はそれでは何も解決しない。そんな相手に泣きつかれた時の対応は本当に難しい。こちらが何を言っても『だけど・・・』とか『でも・・・』などという否定的なニュアンスの接続詞ではじまる言葉が返ってくることが多いからだ。

延々とそれを繰り返しているうちに相談を持ちかけられたこちらがイラついてしまうこともある。そして『もっと前向きに考えろ』とか『何とかなるさ』とか『そんなの気にするな』とか『元気出せよ』なんていう安易な励ましの言葉を投げてしまったりする。

以前も書いたが、本当に悩んでいる者にとってそれらの言葉はまっすぐ相手に投げかけても殆ど意味を成さない。というか、むしろ相手を追い詰める原因にすらなる。だってそんなことはわかりきっているのだから。わかりきっているのにそれができないからつらいのだから。相手にしてみれば『そんなこと改めて言われても・・・』という感じだ。

そんな風に相手が否定的で煮え切らない反応ばかり示す場合もそれをものともせずに自信満々でストレートにアドヴァイスをし続ける人もいる。そういう人の中には確かに的確で真っ当なアドヴァイスが出来ている人もいるだろう。俺は今までそういう人を単純に自分の考えをしっかり持っていて凄いなと尊敬している部分があったが、それですら必ずしも相談者の助けになるとは限らないということを最近感じるようになった。

その的確なアドヴァイスがストレートに出来る能力だけでは決して相手の気持ちを理解しているとは言えないからだ。相手の気持ちがわかるから的確なことが言えるのではないかと思う人もいるかもしれないが俺はそうは思わない。

的確で具体的なアドヴァイスをストレートに相手にぶつけても相手はやっぱり煮え切らない反応しか返してこないことだってある。アドヴァイスは的確なのになぜそうなるのだろう。それはそれをそのまま受け入れるだけの余裕が相手に無いからではないのか。なのにそれを無視してまっすぐにアドヴァイスし続けるのはやはり本当の意味で相手の気持ちをあまり理解しようとしていないからではないのか。

こういうケースの場合、相手の気持ちを理解しようとすればするほど、相手を思いやればやるほど、アドヴァイスというものが難しいものになっていく。言葉を詰らせてしまう。だからと言って何も言ってあげられないままでは心苦しい。俺はここがとても難しいところだと思う。こういうケースにぶつかったとき、相手が大切な相手であればあるほどもどかしく、なんとも言えない気分になる。

ではどうすれば良いのか。正直今の俺にはよくわからない。ただ方向性はなんとなく見えている。俺はこういうときストレートに相手に言葉をぶつけるのを避けるべきだと考える。的確で鋭いことを言えば言うほど相手は追い詰められ傷ついていくからだ。この手の失敗を俺は沢山してきた。実際最近でもしている。そのたびに自己嫌悪に陥っている。

だからここから先が難しいと強く実感している。ストレートな言葉を避けたうえで、一見すると全く関係の無い方向から相手が良い方向に行動できるようにうまく誘導してあげるのだ。相手に『こうしたらいい』とまっすぐ伝えてしまう前に、いつの間にか相手がそれをしてしまうような方向に誘導するように努力する。

前述した『もっと前向きに考えろ』とか『何とかなるさ』とか『そんなの気にするな』とか『元気出せよ』などの言葉はそのまま相手に投げかけても確かにあまり意味を成さない。だから、それらを口に出す前に相手が自然とそう思える方向に進めるにはどうしたらいいかを考え、その誘導が出来るように努力する。

これではあまりにも抽象的だが、今の俺にはそこまでしかわからない。具体的なその努力をしようとすると相談されたこちら側もかなり頭を悩まし、試行錯誤し、そして苦しまなければならなくなる。的確なアドヴァイスをそのまま相手に伝えたり、励ましの言葉を口にすることなんかよりもずっとずっと大変なことだ。

『相手の気持ちを見抜く』ことは、イコール『相手の気持ちを理解出来る』ことにはならないと思う。相手の気持ちを見抜き、相手の置かれた状況をある程度洞察出来ればそれなりに的確なアドヴァイスは出来るだろう。しかし、本当はそこから先が難しいのだと思う。そう、そこから先なんだ。

相手の気持ちをより深く理解しようと努力するとただ単純に的確なアドヴァイスをまっすぐに相手に向ければそれでいいわけではないことに気づく。そしてさらに自分が聞き手で相手が話し手という気楽な関係で留まっているだけではいられないことに気づく。自分自身も相手と一緒に試行錯誤し苦しまなければならないことに気づく。相手の苦しみを共有しなければならないことに気づく。

だから他人の気持ちを理解するのは難しいのだと思う。大切な相手にとって真のアドヴァイザーになる為には涼しい顔をしているだけではダメなのだと思う。きれいごとをただ並べるだけならば小学校で習った道徳の教科書でも読めばいい。

実際は人間の気持ちというのはそんなに単純なものではない。
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 ■[ Column ] 2006/10/12 [ Thu ] - 環境は季節みたいなもの



今、仕事が立て込んでいまして。

と言っても、仕事量が多いだとか、無理難題を任されたとか、そういうんじゃなく単純に俺の能力の問題で結果的に追い込まれているだけなんですが。要は俺の能力不足。俺は年齢の割りに仕事の経験が浅いのでこういうことの連続です。

そういう状況になると俺は割りとモロいんで、かなりしんどく感じます。肉体的にではなく精神的に。追い込まれると凄く焦りまくる。凄くパニくる。そしてとにかくイライラしはじめる。それを家にまで引きずって帰ってきて奥さんに当たったり、飼い犬に当たったりもする。

今日もそんな風になる可能性は十分にあったのだけど、帰りの電車の中で頭の中を一生懸命整理して、考え方を前に持っていくことが出来た為、八つ当たりをしたり、憂鬱を引きずったりすること無く家では笑顔でいられました。

いつもの俺はイライラしたとき、つらい状態に追い込まれた原因を周囲に見出そうとしてました。『上司がちゃんと人を使えない人だから仕事が円滑に進まないのだ(イライラ)』とか、『詳しい説明をせずに仕事を投げてよこすなんて、無責任だ(イライラ)』とか。要は自分がしんどい原因を自分の置かれた環境(そこにいる人々も含めて)のせいにする。そんな自分を振り返ってみて帰りの電車の中でふと思ったのです。

自分の置かれた環境は季節みたいなものであると。

自分自身が存在しようとしまいとその『環境』というものは既に存在している。そしてその環境にいる人々にも俺の存在の有無とは無関係なところでそれぞれの事情や思いを持っている。つまり、俺がまずそこにいて、その後から俺の周囲が存在するのではなく、まず環境があって、そこに俺がいる。

季節というのは俺の存在の有無とは無関係にその色を変えていく。夏、俺がどう望もうと関係なしに暑くなる。冬、やはり俺がどう望もうと寒くなる。それに歯向かっても寒いもんは寒い。俺は暑い夏の中に置かれているのを前提として、『暑いならどうすれば良いか』を考えなくてはならない。俺は寒い冬の中に置かれているのを前提として、『寒いならどうすれば良いか』を考えなくてはならない。

暑さ寒さに不満を漏らすより、その環境で何をできるかを考えろ。要はそういうことなんだろうなと思いました。まあ、自分自身の手で回りを変えてみせる、ということも出来る場合もあるのだろうけど、そんな野心を持ってるのならサラリーマンなんかやらんよ。

ただ、暑い国にいてどうしてもそれが肌に合わない、納得できないのなら他の季節感を持ったところに移住することは出来る。前の会社はそんなところでした。最初から肌に合わないのを承知で行った・・・というか行かざるを得なかった。そこしか入れなかったから。

そして俺は何とか納得の出来るところに移住することが出来ました。だから、前の環境から抜け出したことは一欠けらも後悔してないです。後悔どころか心の底から良かったと思ってます。

でも、移り住んだ場所にも季節はあるんですよね。暑さ、寒さに文句を言う前に、それらにどう対応すればいいのかを学べってことですね。
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 ■[ Column ] 2006/11/27 [ Mon ] - 出来が上がってしまった人



『あいつはこうだからダメだ』。

と少ない要素から他人を簡単に断罪し、人としてすべてを否定してしまう人がいるけれど、俺はそういう人こそダメな場合が多いと感じる。そういう人はとても自我が強いことが多いので様々な事柄において『言い切る』ということをする。

それは一見しっかりと自分の考えを持っているかのように見えるが、もう少し目を凝らして周囲を見渡してみると実は必ずしもそうではないような気がしてくる。

ある人が『これはこうだ!』、『それはダメだ!』、などと自信を持って言い切っていて、それを聞かされいる人がそれに頷いたり、黙ってしまったりしている状況は、果たして単純に見たままだと考えていいのか。頷いているのは果たして言われたことに納得しているからなのか。黙っているのは言い返す余地が無いからなのか。

実はそうじゃないことも決して少なくないんじゃないの?

自我が強く人の話を聞かないあんたと言い合うのが面倒くせぇから相手が仕方なく折れているんじゃないの? 同じ土俵に上がる気が無いからスカされてんじゃないの?

それに気づかず『相手を言い負かせた』と思い込む。それに気づかず『その素晴らしい正論に相手が反論の余地を見つけられない無い』と思い込む。それに気づかず『その素晴らしい正論に相手が納得している』と思い込む。そしてご満悦。俺ってすげぇ自分をしっかり持ってるって大満足。

実のところそういう人ってとても多いと感じる今日この頃。悪い意味で『出来上がってしまった人々』をかわしながら、そして心の中では失笑しながら人々は日々を過ごしていたりする。
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 ■[ Column ] 2006/12/05 [ Tue ] - 大人



そーいや、凄く小さなガキの頃。


大人は別の生き物で、
子供と違ってちゃんとしている。


なんて、漠然とだけど思っていたなぁ。実際大人になってみて、ガキの頃に想像していた『ちゃんとした』人間になった人ってどれだけいるんだろ。

相当前にも同じコト書いたことがあるけど、もしも子供の頃の自分に会うことが出来たとして、その子供の頃の自分が今の自分を見てガッカリしない人間になれた人はどれだけいるんだろう。

夢に溢れていた子供の頃に想像した職業はきっと突拍子も無い正に『夢物語』であることも少なくないからどんなに今の自分の職業に納得していても夢に溢れている子供にとってはガッカリなモノの方が多いだろう。

ここで言っているのはそういう職業だとか環境だとかいうものではなく、人間として、大人として、内面的な部分で子供の頃の自分が尊敬してくれるような大人になれているかどうか。例えば大嫌いだった学校の担任みたいなヤツになってしまっていないかどうか。

今の自分の職業やまわりの環境は間違いなく子供の頃は知ることが出来なかった現実の中にある。だから未来がまだ夢の中にある子供の頃の自分は今のそれらを見てガッカリするかもしれないけれど、今の自分が彼に『人として』自信を持って誇れるならそれでいい。

けど、それが出来るのか。それを出来る人がどれだけいるのか。俺は自分や、周囲を見回してすごく興味がある。
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 ■[ Column ] 2007/04/14 [ Sat ] - 聞き上手になりたい



こんばんわ。オナラばっかりしてるアイバですけど。

最近、以前より遥かに、人と話すときにどう話せば相手が気持ちよく話が出来るか、ということを意識しながら話すようになった。人は相手の話を聞くよりも自分の話をしている方が心地がいいことが多いようだ。だから人と話をしているときはそれを常に何処かで意識している。何年か前の自分はそこまでハッキリ意識していなかった。

どちらかというと女性の方が、より話したがりの傾向が強いように思うけれど、男でも同じような性質は持っているように思う。露骨に質問攻めをして相手にしゃべらせようとしてもあまり意味は無い。何となく相手が話題の中心にくるように少しずつ話を相手の話題が中心にくるようにスライドさせていく。そうすると徐々に相手は心を開いてきて楽しそうに話をしてくれる。

相当前、本当に相当前だと思うけど、サイト上で『自分は相手と打ち解けたいからまず自己開示をするんだ、自分が心を開かなければ相手も心を開いてくれないから』みたいなことを書いたことがあったと思うんだけど、最近は相手と打ち解けるために最初に必要なのはそれでは無いような気がしている。

と、いうか、正直に言うと、俺が以前言っていた『自己開示』という行為の裏には『自分をわかってほしい』、『自分はこんなヤツだけど嫌いにならないで』、みたいな自分本位な考えが一番先にあった気がする。相手と打ち解けることが目的なようでいて、実はそうではなく、一方的に自分を相手に理解して欲しいだけだったり、嫌われたくないだけだったり。

それが結果的に『ほら、自分はこんなにいろんなことを話したよ、だからあんたも話しなよ』という感じの実に押し付けがましい行為になってしまっていたこともきっと少なくなかったと思う。だから、こっちが色々話したにも関わらず、相手があまり心を開いてくれなかったときは無性に腹がたってしまう。こっちはこんなに心を開いているのに何で!?ってイライラしてしまう。

最近はそれはやっぱり違うんじゃないかと思うようになった。それはこちらが心を開く必要は無いと言っているのではない。もちろんこちらがオープンな気持ちでいることはとても大切なことだ。だけれど、いきなり一番最初に自分のことを相手にわからせよう、わかってもらおうとしても、相手は都合よくそれを受け入れてくれるわけではない。そもそも相手は自分が思っているほど自分に興味が無いものなんだと思う。

だからまず自己開示、という唐突な流れではなく最初に意識するのは相手が何も求めているのか、何を話したいのかを知ろうとすること。相手が気持ちよく話せるような流れを作ること。そして自己開示ってのはその流れのなかで後から少しずつすれば十分だと考えるようになった。とにかく相手のことを考えるのが先。『自分がいて相手がいる』、ではなく『相手がいて自分がいる』、という順番。

自己開示を真っ先にしようとしていた過去の俺には『自分がまずこうしたんだから相手もこうしてくれるに違いない』という甘えとか、ぬるさとかがあって、能動的なようでいて、実は非常に受動的だったんだと思う。自分の呼びかけ(つまりここでは自己開示を真っ先にしようとしする行為)に応えてくれない相手に非常に不快感を感じてしまうという身勝手さがあったんだと思う。

俺は人として大きくなりたいと思うからこそ聞き上手になりたいと願う。
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