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攻撃力と創造力 - 2003/05/07 [Wed]

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理論武装というのがある。理論で身を塗り固め反論者を撃退する。もしくは自分の意見に反するモノを発見すると理論で武装して攻め込んでいく。それ自体は悪だとは思わないが、俺は自身はあまり好きな行為ではない。でも自己顕示欲に飲み込まれたとき、実際に隙なく武装できているかどうかは別にして、そのような行動をとってしまうことがあるのは確かである。だが俺はそんな自分は嫌いであるから、生きていくうえで直して生きたい課題のひとつである。


何故俺がそのような行為があまり好きでないかというと、それは非常に安易な行為だと思うからだ。理論で武装し攻撃するという行為は、それを隙なく成功させるにはとても難しいことだと思うので安易な行為だというのには矛盾がある。だが俺が言いたいのは理論で武装すること自体が安易だと言っているのではなく、それをしようとする発想の方が安易な行為だということである。


理論武装で相手に食って掛かるのは、端から見ている人々の関心を引きやすい行為だ。しかもそれに理論で勝利すれば単純に尊敬する人も少なからず存在するだろう。つまり自己顕示欲を満たすための行為としてはかなり効果的な行為だと思う。自分の理論的な攻撃力の高さを示すことで周囲がその人に一目置くのはよくあることであるから。


しかしだ。理論的な攻撃力が高い人が、同時に高い創造力を持っているとは言えない。というか、むしろ攻撃的な姿勢を持って自分の存在を確認したり示したりすることばかりの人は創造力に欠けている部分があることが多いような気がするのだ。既に目の前に何かしらの意見などが転がっていてその粗を探し食って掛かるのはお手の物なのに、そういったものが用意されていないと自分から話題を提示することが出来ない。そういう場合、なんとか話題を提示してきたとしても視点や話題が非常にワンパターンで意外性や面白みが無かったりする。つまり、自ら話題を創造することが出来ないのである。今までの経験からそういう人は存在すると俺は感じている。


そういう人は俺にとって最高の反面教師である。創造力に欠ける人が自己顕示するには攻撃的にならざるを得ないのだろうか。または逆に、自己顕示するために必要以上の攻撃力を行使し破壊を続けると何かを創造することの喜びや楽しさ、さらに面白みのある視点を持つことが損なわれていくのだろうか。どちらもちょっと極論かもしれないがそんな風に感じるから俺は必要以上の攻撃的姿勢の人や自分がそれをしてしまった場合にその自分を嫌うのかもしれない。



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