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運転初心者の悲劇 NEO - 2003/04/22 [Tue]

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1997年。日本初の大型ロック・フェスティバルとしてフジロックフェスティバルが開催されることになった。このフェスは富士山の近くで行われるためにこの名称がついている。つまり山での大規模なロックフェスティバルというわけだ。97年の8月に2日間に渡って行われる予定だったこのイベントに2日間通して参加すべく友人と3人で赴いた。思いっきり楽しむつもりで。


フェスティバル前日、テレビの天気予報では台風の情報が伝えられていた。そして当日、直撃はしなかったが台風はフェスティバル会場をかすめた。かすめただけとはいえ、当日の山の天気は最悪だった。真夏だというのに凄まじい寒さだ。俺は友人と3人で行ったのであるが、誰一人防寒具を持ち合わせてる者は存在しなかった。寒さで死ぬ所だった。実際、公にされていないが死者が出たといううわさがある。多分ホントだと思う。一人ぐらい死んでるって絶対。


書き出しはロックフェスのことからはじまった今回の話だが話題の中心はフェスティバルが行われている最中の事ではない。その帰り道での出来事である。フェスティバル1日目が終了し、会場に泊まるのは天候の関係で無理だと思った俺たちは一度友人の家に戻ろうという事になった。その友人の家には会場に向かう前に既に寄っていて、俺はそこに車を止めてきていたのだ。俺たちはフェスに参加する前は山を非常に甘く見ていて、キャンプを張るスペースのチケットを取っていない上に防寒具も準備していなかったのである。しかも出発前はテンションが上がっていたために友人宅で徹夜していた。だからとにかく一度戻らねば命に関わるほどの事態になっていたのである。


しかし日本での初フェスということで開催者側にも相当な粗が目立っており、フェスが終わるのが11時ごろだったにも関わらず帰る手段が全く準備されていないことが判明し会場はかなりの混乱振りだった。会場から一番近い駅に向かう為のバスなども準備されていない上に、電車の臨時運行などの手配も全くされていなかった。つまり会場まで車で来た人以外は帰れないのである。事前にそのようなアナウンスは一切無かったので多くの人が路頭に迷う結果となっていた。


しかし会場で朝までしのぐのは不可能だったためにとにかく歩いて町のほうに向かうことにした。俺たち以外にも真っ暗な山の道をヘトヘトになりながら歩いている人がたくさんいた。必至で歩き続けていると俺の体に異変が起きた。股が・・・・股が猛烈に痛いのである。これは一体!?


・・・・それは股ズレだった。


全身が雨によりびしょびしょで泥や砂が大量にこびりついていた。その時履いていたズボンはやたらと生地の厚いモノだったためにズボンについた泥や砂と分厚い生地がヤスリのような働きをしていたのである。余りの痛さに徐々に内股になる俺。さらに友人に距離を引き離され始めていた。はじめは痛みをこらえて黙って歩いていたが余りの痛さに友人に今の俺の状況を説明し、歩く速度を落としてもらうことにした。それでも俺一人が遅れてしまっていた。


殆ど半べそでなんとか駅に着いたが、もうそこで限界。俺は全く動けなくなってしまった。それを見かねた友人が何処からかタクシーを見つけてきて、目的の友人の家に電車一本で行ける別の駅まで移動しようということになった。もちろんそこに移動したところで電車は走ってない時間だったが大きな駅に移動すれば休むところもあるだろうという考えからそうすることにしたのである。その時のタクシー代はなんと3万円以上だった。


そして駅に着き山での寒さからは完全に逃れることが出来た。俺たちはその駅で始発を待ち友人の家に戻った。友人の家に着いてからシャワーを浴びさせてもらいコンビニで買って来たパンツとティーシャツを身につけグッタリしていた。その間俺はズボンは履かずパンツとティーシャツだけで過ごしていた。ズボンはその友人宅で洗濯してもらっていた。その時は既にフェス二日目の朝であった為、俺はまたあの道のりを戻ってフェスに行く気が全く起きなかった。そしてチケットは無駄になってしまうが二日目は諦めて帰ることにした。しかし、友人二人は少し寝てからまた行くと言っていた。だから俺一人だけ車で自分の家に帰ることにしたのである。


しかしここからが本当の悪夢のはじまりだった。実はこの時の俺は運転免許を取ったばかりでひとりで長距離を運転するのは初めてだったのである。行きの道のりでは助手席にひとり友人が乗っていて色々アドヴァイスを貰いながらの運転だったのでなんとか安全にたどり着けたが、ひとりでの運転はハッキリ言って無茶だったのだ。行きでは全部友人のナビゲーションを頼りに運転していたので道はサッパリわからない。しかも道順と運転の両方に気を配るほどの余裕は俺には無かったのだ。しかし、無茶をしてでも早く帰りたかった。


そして俺は一応一番シンプルな道順を教えてもらってからすぐに車で出発することにした。俺は車なのでまあいいかと思い、ティーシャツとパンツだけしか身につけていない状態で車に乗り込んだ。洗濯中のズボンは後日友人に返してもらえばいいやと思った。しかしこれが大きな過ちになろうとはこの時は知る由も無かった。俺は自分の持つ大きな『ある弱点』をこの時甘くみていたのだ。その『ある弱点』が積み重なった疲労と絶妙なハーモニーを奏でて絶体絶命のピンチに俺を陥れることになったのである。


ともかく自分の家に向けて出発だ。俺は車をバックさせて車庫から道に出ようとした。


ゴンっ。


いきなり電柱にぶつかる俺。


コントですか?


出だしから絶好調である。気を取り直して走り出した俺は10分ほど走り続けてあることに気づいた。


さすが俺。もう迷っている。


そう。俺の『ある弱点』とはこのことなのだ。俺は極度の方向音痴なのである。道順はしっかり教えてもらったはずなのに10分走っただけで既に何処にいるのかサッパリわからなくなっていた。しかも俺は地図を持っていなかった。早くも大ピンチである。とりあえず携帯で友人に電話をかけ道を聞き直した。運転初心者が電話しながら運転するのは危険すぎるので電話するたびに車を道の脇に止めて電話をしていた。その苦労も虚しく俺は一向に自分の位置が把握できなかった。そして何度目だろう? 友人に電話をかけたとき。


『留守番電話サービスに転送します・・・・・。』


ね、寝やがった! ヤツラ俺を見捨てて寝やがった!!


そして完全にどうしようもなくなった俺は徐々に錯乱状態に陥っていく。錯乱しはじめた俺はヤケクソになり、とにかく無茶苦茶に走り続けた。疲労と道がわからないという焦りから一瞬気が遠くなったその瞬間、『ドカ!』というスゴイ音が聞こえた。その音に驚いた俺は慌てて車を止め後ろを振り返った。するとそこにはミラーが落ちているのが見えた。俺はそれを見てもなお事態を把握できなかったが、ふと横に目をやると。


サイドミラー、無いじゃん。


それを見て俺は事態を理解した。意識が遠のいた瞬間に道の脇にある電柱にミラーをぶつけ、ミラーは無残にも後ろに吹き飛んだのだった。俺はそのミラーを拾う気力も無く、とりあえずそれを見捨てて再び発進した。しかし全くここがどこかわからない。とにかく大きな道に出なくては、と適当に走り続けているといつの間にか素晴らしく狭い道に迷い込んでいた。その道は車一台通るのもやっとなほどに狭い道で初心者の俺にはそこをまっすぐ通り抜けるのすら難しく思えるほどだった。そして俺は再び錯乱しはじめ意識が遠のく。その時だった。


パァァァァァァァン!


ミラーが飛んだ時とはまた違う音が鳴り響いた。とてつもなく狭い道だった為に俺はノロノロと走っていた。仮にぶつけたとしてもミラーが飛ぶはずがない。しかも音がさっきとは明らかに違う。何の音だろう?と思いつつ、でもまあ良いかと思い直し(思い直すな)、再び発進しようとすると、ハンドルが動かなかった。しかもハンドルから伝わってくる感触には何か変な手ごたえがあった。ズル、という何かを引きずるような手ごたえ。これは一体なんだと車を降りてみると。


タイヤ、取れてるじゃん。


呆然とする俺。実はさっきのパァァァァァァンという音はタイヤが破裂する音だったのである。俺が走っていた道の脇には工事途中と思われる三段くらいの低いブロックがあり、そこから出ていた鉄筋がタイヤに刺さったようである。絶対絶命だった。もうこれで車は絶対に動かない。ジャフを呼ぶしかないという事態になってしまった。破裂して外れているタイヤを呆然と眺めていると、タイヤが破裂した音に驚いた近所の人が続々と家から出てきた。その時、俺は自分の足元を見て思った。


俺、パンツ一丁じゃん。


これを悪夢と呼ばずして何と呼ぶのだろう。車は再起不能。しかも自分はパンツしか履いていない。とにかくこのパンツ姿をなんとかしなくてはと焦った俺は一番最初に家から出てきた近所の人に対して『すすすすすすすすすすすす、すいません。ズボン。ズボン売ってください!』と口走っていた。これじゃあ完全に変質者である。何だコイツはと首をかしげている近所の人を見てハっと我に返り、俺は事情を説明した。自分は山でロックのコンサートがあった帰りで、ズボンが台風でびしょ濡れになったためにパンツで車を運転してたのだと。そしてご覧の通り車は再起不能なためにズボンが急遽必要なのだと。だから履いていないズボンがもしあればそれを譲ってくれないか、と。


そして事情を理解してくれたその人は家に走って戻りなんとズボンをただで譲ってくれたのである。世の中捨てたもんじゃない。本当にありがたかった。しかもジャフの電話番号なんかも教えてくれて俺の車はレッカーで移動されることになった。車は再起不能になったが事故現場の近所の人の厚意により最大のピンチを乗り切ることが出来たのである。しかしジャフはその場で料金を払うシステムで、持ち金ギリギリでその料金を払うことになってしまった。再び俺は途方にくれた。一文無しである。つまり。


帰れねえじゃん。


仕方なく俺は家に電話をした。運良く両親が家にいたので事情を話しひとしきり怒られた後、現場まで迎えに来てくれることになった。しかし車ではなく電車で来るとのことだった。俺の親父は車の免許を50歳位のときに取った人なので車での遠出はしないのである。俺はレッカー車で駅の近くまで乗せて貰うことができたので駅で親が来るのをうなだれながら待った。そして親が来てから帰る前に事故現場でお世話になった人と、ブロック塀の持ち主に菓子折りを持って挨拶に行くことにしたブロック塀は突っ込んだ衝撃で少しだけ崩れてしまったのだ。


97年のフジロックはそんなアクシデントをなんとか乗り越え(乗り越えてない)、無事に(無事じゃない)に終了したのである。家に辿り着いたのは夕方であった。俺は家に帰ってから俺を見捨てた友人二人に電話をしてみた。彼らは二日目も行くと言っていたので電話は通じないだろうと思いながらも一応電話してみたのである。トゥルルルルルルルルルルルル・・・・・ガチャ。あれ!? 出たぞ!? そして受話器の向こうからこんな第一声が。


『よう。寝過ごした。』


えぇ!? ヤツラは今も友人宅にいるという。起きたら夕方だったという。と、いうことは、俺も一緒に友人宅で眠っていれば二日目に行くことなく、さらに隣にナビゲーションの友人を連れた状態で安全に帰ってこれたんじゃねーか。事故のことを話すと電話の向こうで大爆笑している声が聞こえてきた。俺はその笑い声を聞きながらしばらく白目を剥いていた。



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