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『自分で語る自分≠他人が感じ取る自分』 - 2003/04/24 [Thu]

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自分で語る自分ほど当てにならないものはない、と俺は思う。


俺が過去のサイトでやってきた『自分語り』というのは自分で自分を語ることによって自分以外の誰かに本当の自分を理解してもらうことが直接的な目的ではない。というか、そもそもそんなことは不可能であるというのが前提に存在すると俺は思っている。だって自分で語る自分ほど当てにならないものはないのだから。


俺は『自分語り』によって語られた言葉そのものがそのまま本当の自分を表現出来ているわけが無いという前提をまず置いて、その上で自分が出来る範囲でとりあえず自分を語ってみると、それを書いている時の自分の思惑や心の深いところで感じている本音の部分がなんとなく透けて見えてくる気がするのだ。その透けて見えてくる部分が本来の自分に割と近いモノなのかなと思う。自分語りはそれを発見するのが目的なのだ。目的、という言い方をすると少し大げさだが、自分語りをした結果透けて見えてくるものを反省したり、改めて考えたりするのは俺にとってそれなりに楽しいことなのである。


一時期『過去ログ』を読み返すのは恥かしいからしない、ということを言っていたこともあるが、ある時期から一度書き終えた自分の文章を後から読み返すということをよくやるようになった。そして、旧サイトを閉鎖し、現在の形に移行してからは同じテーマについて繰り返し書き直したりもしている。それは過去に書いたものから透けて見えてきた部分を交えるようにしてリライトし、本当の自分に近づくように仕向けていくことで少しでも自分が納得できるような文章に近づければ良いなと思うからだ。俺はその作業を結構楽しんでやっている。もちろんそれが自分自身を正確に表現できている文章に完全になることはないだろうが。だって俺は、自分で語る自分ほど当てにならないものはない、という前提を置いているのだから。


ところで、透けて見てくるモノの最もわかりやすいと思われる例を挙げれば、自分の苦労話や武勇伝を書くという行為がある。そこに書かれた苦労話や武勇伝を読み、ただ単純に『この人はスゴイ経験をしているからスゴイのだ』と感心してしまう人も中にはいるだろうが、苦労話や武勇伝を自らすすんで語る人の心の奥底には誰かに尊敬されたいなんていう一種の腹黒さみたいなセコイ感情があったりすることも少なくないだろうし、実際そのようなものを読み取る能力がある人は少なくないと思う。もちろんひとつやふたつの文章を読んだだけではそこまでは見えないだろうが、そのセコイ部分がもし心の奥底にあった場合は長い目で見ていればなんとなく透けて見えてくるものだと思う。


逆の例を挙げれば、多くの人に尊敬されるに値する大きな器量の持ち主が、自分はこんな苦労をしたんだとかこんな武勇伝があるんだみたいなことを自らすすんで明確に言葉にしないでいても、その人の言動を総括的に見ていればおのずとその器量の大きさというのはなんとなく透けて見えてくる。具体的な武勇伝をアピールするまでもなくその人はいつの間にか尊敬される存在になっているものだと思う。いつの間にか、だ。


もっと言えば、溢れんばかりの自己顕示欲を持った人がそれを誤魔化すように謙虚な文章を書いたところでその多くは誤魔化しているつもりの自己顕示欲が透けて見える文章が出来上がると思うし、基本的に謙虚な人がキャラを作って傲慢な態度を取ってみたところで何処かに謙虚さが出てしまうものではないだろうか。まあ後者の場合、そもそも謙虚な人は傲慢なキャラを演じようという発想自体をしないのでは?、という矛盾点もあるわけだが、あくまでも極端な例の話ということでそのツッコミはなしの方向で。


俺は自分を自分であえて語ることで、そこから透けて見えてくる自分の本音を確認したいのである。俺の場合、本音というのが必ずしも自分で自覚しているものとは限らない。無意識のうちに汚い本音の部分から目をそらしていたりすることも多い。だから、自分で自分を語っている様を文字として形に残した上で、少し経ってからそれを見ると、それを書いていたときの自分の心の奥底の思惑が透けて見えてくるのである。日常の出来事を綴った何気ない文章からも意外なものが見える時もある。もちろん、文章を書くときはその時の正直な気持ちを書いているつもりではいる。そうでなければあまり意味が無い。その上でそれを後から見返すとそこには無意識にしまいこんでいた本音の部分、自分の思惑が透けて見えるのである。


旧サイトにおいて掲示板を荒らされたということがあった。その荒らしというのは非常に幼稚で『修行するぞ』という言葉をひたすら繰り返し投稿するという手口だった。しかし、その当時はまだサイトを始めてそれほど時間が経過していなかったのでそんな幼稚な荒らしにも心底慌てていた。しかしサイト上での俺の対応は『全然気にしてません』というのを装ったモノだったのである。


その時、強がっている自分を自分で自覚した上で思惑と裏腹の対応を『あえて』していたかというと実はそうでもなく、サイト上でしたその対応が紛れも無く俺の本心だと信じようとしていた。慌てている自分を自分の中で抹殺しようとする意識が働いていたのだ。慌てている自分を認めたくないという意識があったのだ。その状態で書いた当時の荒らしに関する文章からは見事に『強がってるんじゃないやい。本当に気にしてないんだい。うそじゃない。うそじゃないぞう!』という感じの言い訳っぽいモノが透けて見えてしまっていた。もちろんそれを言葉として書いていたわけではない。表面上はあくまでも冷静を装っているのだ。後で読み返すと透けて見えてくるそんな部分を発見し反省するのが自分語りの目的であり、俺が楽しんでやっていること、というわけである。


文章として並んでいる言葉そのものではなく、そこから透けて見えてくるモノってのはもちろん見る人によって異なるモノであると思うけれど、少なくとも言葉として明確に形になったモノよりは信用出来るモノのような気がする。以上はあくまでも俺の自身の文章の話であるが、仮に他人が書いた文章から透けて見えてくる何かがあるような気がした場合、それはもしかしたら独りよがりな想像を膨らませて勝手な解釈をしているだけかもしれないが、本当に書き手の本音が透けて見えている可能性もある。それらは本当に紙一重なのでなかなか難しい部分だと思う。


てんで空気を読めないような人や、独りよがりな想像で勝手な想像をしてしまうようなクセのある人は別として、読み手が俺の書いた文章から文字以外の透けて見える何かを感じ取ったなら、多分それは俺が無意識に隠しているような本音の部分なんかを発見した瞬間だったりするのだろうなと思う。もしくは俺自身が自分では自覚できないような部分が透けて外に出てしまっているんだろうなと思う。俺は、そういうものを無意識に発信してしまうような傾向が自分にはあるのではないかと自分自身で認識している。もちろんそれですら、他人からは違う風に認識されているかもしれないわけだが。


日記やテキストを継続的に書いているようなサイトに載っているのは単なる文章ではあるが、そこから無意識に透けてしまっている何かがあって、それこそがその人のひととなりの一部分ではないのだろうかと俺は考える。もしかしたらこの文章ですら、後で読み返せば思わぬモノが透けて見えるかもしれないし、これを読んでいる貴方は俺が全く無自覚の内に発信してしまっている何かを既に見透かしているかもしれない。


俺は以前『このサイトは壮大な自己紹介みたいなものだ』ということを書いたと思うが、それは俺が書いた文章が最初から正確な自己紹介として成り立っているという意味で言っているわけではない。それはここまでこの文章を読んだ人はもう理解しているとは思うが、一応それを説明すると次のようになる。


俺がどんなものに興味を示しているか、俺がどんな角度から物事を語っているか、俺がどんなものを比喩に挙げて話を進めているか(比喩に出すものはその人の趣味趣向が無意識に出るものだと思う)、などのようなものを総括的見たときに文字のその裏側から透けて見えるものが人それぞれ感じ取れるだろうし、結果としてそれが俺の自己紹介的な役割を果たしているという意味で『このサイトは壮大な自己紹介みたいなものだ』と書いたのである。極端な話、サイトのレイアウトにすらひととなりを表す何かが垣間見えるかもしれない。


『書かれた文字そのものが現すもの=ひととなりの一部』ではなく、『書かれた文字の裏側から透けて見えるもの≒ひととなりの一部』であると俺は思う。それらはそれぞれ法学における『文理解釈(※注釈1)』と『論理解釈(※注釈2)』の関係みたいなモノと言えば判りやすいか。ある人物が自分について書いた文章を読むとき、それを『文理解釈』するだけではいまひとつ面白みに欠けると思う。やはり『論理解釈』するからこそそこから広がりが生まれてくるのだと思うのだ。


とにかく自分で意識してアピールした自分像というのは本当に当てにならないと思う。自分で明確に自分を認識できて、尚且つそれを文字で正確に表現出来るくらいなら、誰も人間関係に苦労なんかしない。自分が認識している自分像と他人が認識している自分像が食い違うのが当たり前だからこそ、人間関係は難しく、そしてまた楽しいのだと思う。きっとここを見ている人の人数分だけの『アイバ像』が存在するのだろう。


やはり。


自分で語る自分ほど当てにならないものはない、と俺は思う。




------ 本文の注釈について
※注釈1・・・条文の字句に重きを置いて法律を解釈すること
※注釈2・・・条文の字句に固執せず、立法趣旨、具体的妥当性などを考慮に入れて理論的に法律を解釈すること



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