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思想 - 001

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人間には色んなタイプの人がいるけれど、強い人というのは一体どんなタイプの人のことを言うのかしら。表面的に気が強いように見える人が意外とモロかったりすることもあるし、普段大人しい人がいざというときに凄い爆発力を持っていたり、一見するとあまり余計なことを言わずにナーナーとしているようで実は凄くしっかり人を見ていたりと色んな人がいる。


人のことを基本的に見下していてプライドばかりが高い人というのは、それが傷つけられることを当然の如く極端に嫌う。だから、常に自分は上、他人は下、というような言動を繰り返すことが多い。プライドが高いあまり、理論武装で相手をねじ伏せたり、無茶な屁理屈や嫌がらせで相手を不快にしたり・・・、そんなことをする人もいる。そのような場合、それをはたから見ると凶暴で、ギラギラしていて、とても恐ろしい人のようにも見えることもあるだろう。だけれども、それがその人の強さの現われではなく、むしろ弱い部分だったりもするのかもしれない。


例えば、もしそのプライドを傷つけるモノが自分以外の誰かではなく、本当にどうしようもない、回避しようの無いモノだったらどうなのるだろうか。自分のプライドを傷つけるモノが特定の誰でもない、そして自分自身でもない、誰にも責任は無い、そんなものだったら。わかり易い例を挙げてみると、原因不明の病気によって突然体が不自由になるとか、老いによってかつて出来ていたことが出来なくなっていくだとか。そのようなモノは他の誰かが悪いわけでもない。もちろん本人が悪いわけでもない。しかし本人の自尊心は著しく傷つき、怒りがこみ上げてくるに違いない。やり場の無い怒りが。


極端にプライドの高い人はそのやり場の無い怒りを、自分の中で上手く処理することを知らなかったりする。それまでは自分のプライドを傷つけるのは特定の誰かだった。だからその相手に怒りをぶつければよかった。自分の怠惰によって起きた問題も、都合のいいように解釈し、責任転嫁をし、やはり他の誰かに怒りをぶつければよかった。明確に責任転嫁をしてしまえば、たとえ相手に呆れられて相手にされなくっても『まったくあいつはわかってない、言っても無駄だからこちらから関係を絶ってやったんだ』などと自分の中で一方的に納得してしまえる。自分の中でプライドを守った事にしてしまえる。


だけれども、病気や老い、もしくはそこまで大げさなモノではないにしてもそれに相当するようなモノがプライドを傷つける原因になったとき、他の誰かをねじ伏せることでそれを保つことは出来ないし、責任転嫁をして自己完結させることも出来ない。だから、プライドが高く自分が人よりも上であると信じて生きてきたような人は、自分が納得できないものは全て跳ね除けてきた為に、それが出来ない回避しようの無い本当の困難にぶつかった時に、自分の気持ちを上手くコントロールできなくなり、自ら破滅の道を歩んでいってしまうこともあるのかもしれない。


そういう場合は、ある程度妥協を知っていて一見いい加減に見える人の方が意外と自分の気持ちを上手くコントロール出来て、その困難を自分の中で受け止めて前向きな気持ちに変換していけたりする。『高いプライド』というモノが、それまでの凶暴さや攻撃性を生み出し、それがはたから見ると強さのように見えていたのに、その人が回避しようの無い、他の誰が悪いわけでもない、自分自身が悪いわけでもない、特定の人物が悪いわけでもない、そんな本当の困難にぶつかると、それが弱さを生み出すモノに変貌してしまう。


思いっきり引っ張ってあるゴムは、それに軽くハサミの歯を当てただけで簡単に切れてしまうかもしれない。また、一見ゆるゆるのゴムのように見えて、いざというときにそれがものすごい力を秘めているかもしれない。強さと弱さは背中合わせなのかもしれない。


本当に強い人間というのはどんな人なのかしら。



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『俺って凄いだろ?』とか『筋は通すぜ』とかいうオーラがバリバリ出てるような溢れんばかりの自己顕示欲を持った人ってさ。とても皮肉なもので、そのオーラを出せば出すほどその人の周囲から人が離れていくこともある。


そいつの周囲にとっちゃ、そいつのオーラはただ面倒くせえだけだったりするんだ。オーラを出している本人は、自分が筋を通す人間であるから周りが自分に尊敬の念を込め、それ故に自分に楯突いて来ないと思っているけれど、実のところは周囲はそのオーラが単に心底面倒くせえから適当に合わせてるだけで、本質的な部分ではすっかり遠くに行ってしまっていたりする。


逆に、そんなオーラが出てる人を目の前にしたときに自分のことはともかくとして、『筋は通すぜ』といきり立っている人にあえて筋を通させてあげることの出来る人は、一見妥協しているようにも見えるけれど、周囲は意外とその器量の大きさを見抜いていて、いつの間にか人が集まってきて慕われてたりする。そして一歩譲られたオーラの源は『やっぱり俺は間違っていないんだ』とご満悦だけれど、そう思っているのは本人だけだったりして。周囲は離れたところから微妙な笑いを浮かべてみているのにも気づかずに。


人を引き付けたいが為に出しているオーラが実は人を遠ざけ、欲の無さが人を引きつける。なんとも皮肉なものだなあ。



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貴方は自分にとってのキーパーソンと出会いましたか?


そんなわけで、今回のテーマは人生におけるキーパーソンです。まずは俺の親父の若き日のエピソードを紹介してから話を進めます。ちょっと長いですが、これを具体的に書いておかないとどうしても話が進まないんですよね。なので我慢して読んでください。


俺の親父は農家出身なのだけど、東京の大学に入りたくて新潟から一人で上京し、牛乳配達をしながら大学に通い、教職免許まで取って卒業した努力家さんです。その後は大学で専攻していた電機関係の民会会社に就職したのだけれど、待遇はいまいち、仕事内容もいまいちでなんとなく違和感を感じながら数年間を過ごしたそうです。そんな中、会社帰りの電車の中で偶然大学時代の友人に出会いました。


その友人と会うのは随分と久しぶりだったので飯でも食おうということになり、食事をしながらお互いの生活ぶりの話をしたそうです。その友人は高校教師をしていて、給料は悪くないし教師って仕事も良いもんだぜ、なんて言ってたそうです。それを聞いた親父は自分も教職免許を持っていたことを思い出し教師になってみようかと思ったそうな。


そのころ親父の妻、つまり俺のお袋は洋裁店を経営していました。そしてお袋は自分の店の常連のお客さんに単なる世間話として『主人が教師の就職ぐちを探している』という話をしました。すると、そのお客さんは『私にあてがあるから任せてくれ』と言うではありませんか。そして親父はその人の紹介で私立高校の教師になることが出来ました。


しかし、教師になってからが大変でした。大学を卒業して既に数年が過ぎているので改めて専門の勉強をし直す必要がありました。だから家に帰って毎日勉強してたそうです。そんな状況だから生徒にそれを教えるのも当然いっぱいいっぱい。


しかも最初に割り当てられたのがひとクラス70人もいる高校三年生のクラス。ただでさえ人前でモノを教えることに慣れていないのに、高校生活にすっかり摺れている連中を70人も相手にしなくてはならなかったので精神的にもかなりつらかったそうです。その頃に一気にハゲた、なんて笑って言ってました。


そんなある日、職員室で他の先生達が、『公立高校の教員は待遇がよくて良いよなあ。ボーナスも良いし、基本給も良いし。』なんていう会話をしているのを耳にした親父は公立高校に移ることを考え始め、それの採用試験を受けることにしました。


しかし、その時点ではまだ授業をすることにも慣れていないし、自分自身も授業の為に勉強していたので採用試験の為の勉強をする暇は無く、一回目の挑戦では見事に玉砕しました。しかし、教師というのは長い夏休みがあるので、それを利用して勉強し、二度目には何とか受かりました。


しかし、受かってもただ採用者名簿に名前が載るだけですぐに採用されるわけではありません。成績の良い順に欠員のあった公立高校から呼び出しがかかり順次採用されていくのです。そして一年間呼び出しがかからないと期限切れとなりもう一度採用試験を受け直さなくてはなりません。


親父は成績的にギリギリの感じで合格したために、全く声がかからず期限切れが近づいてきました。『もう一度受けなおしかなあ・・・』なんて思いながら私立高校の教員を続けていた時、ある人が親父に声をかけてきました。それは、親父が勤めていた私立高校に講師として来ていた鈴木さんでした。鈴木さんは元公立高校の教頭先生だった人で、その時点では既に定年退職をし、その後に講師のバイトとして親父が勤めていた私立高校に来ている人でした。


鈴木さんはちょっと遠慮がちに『アイバ先生は公立高校の採用試験などは受けるつもりは無いのでしょうか?』と言ったそうです。その当時まだ若かくて、しかも勤勉な性格だった親父に、鈴木さんは『アイバさんはマジメだし、まだ若いのだからもっと待遇の良い公立高校に移る試験を受けてみるのも悪くないのでは?』ということを言いたかったようなのです。


そのとき親父は自分が公立高校の採用試験に既に受かっていることを職場の誰にも話していなかったので、鈴木さんがそのような話を振ってきたのは本当にただの偶然でした。その鈴木さんの問いに親父は『実はもう既に受かっているのですけど、お呼びがかからなくて・・・』と答えました。すると鈴木さんは『そうですかあ・・・・。もう受かっていたのですか。では、その件、私に任せていただけますでしょうか?』と言ったそうです。鈴木さんは元公立高校の教頭です。だから公立高校の管理職に知り合いがいっぱいいたのです。


そして鈴木さんは、翌日には公立高校への就職ぐちを探してきてくれて、ついに親父は公立高校の教師になることが出たというわけです。しかも、それまで勤めていた私立高校は『専任講師』という形で続けさせてもらえることになりました。

なぜそんなことが出来たかというと、鈴木さんが紹介してくれた高校というのが定時制だったために、昼間は今までの私立高校で専任講師を、夜は定時制の公立高校で専任の教員が出来たというわけです。そんな風に二箇所で仕事が出来るようになり、給料がそれまでの二倍近くになりました。朝から夜11時くらいまで働き詰めではありますが、田舎から一人で上京し、貧しい中で勉学に励んだ親父にとってその生活は心から満足のいくものだったようです。


以上の話を聞いた俺は、最初こんな風に思いました。


『なんて運がいいんだ。俺なんかそんな親切な人に出会ったことは無いし、偶然によって人生が良い方向に左右されたことなんかない。やっぱ俺はついてないんだ。』、と。しかし、よくよく考えてみるとそうじゃないんです。ここで書いた話に出てきた親父にとっての『キーパーソンその1』は電車で偶然出会った大学時代の友人です。彼に偶然会わなければ親父は教師をやろうと思わなかった。だけれど、彼が親父にとってのキーパーソンとなった理由はただ単に彼が高校教師をしていたから、ではありません。


親父が牛乳配達をしながら通った大学で、人よりも努力をし、教員免許を取得していたからこそ、彼がキーパーソンと成り得たのです。もし、面倒くさいからと言って教職を取っていなければ、高校教師の彼に出会っていたとしても彼はキーパーソンには成り得ず、ただの『偶然会った友人』でしかなかったでしょうし、一緒に飯を食ったなんていうエピソードもとっくに忘れてしまっていたでしょう。いや、もしかしたら会ったことすら忘れてたかもね。


次に『キーパーソンその2』。それはお袋の店に来ていたお客さんです。それも上記の友人と同様に、親父が教員免許を持っていなければ、『妻のお店のお客さん』でしかありませんでした。さらに『キーパーソンその3』。それはもっとも重要なキーパーソンである鈴木さんです。彼が親父に公立高校の話を振ったのは偶然ですが、そこから話が先に進んだのはやはり親父が努力をして公立高校の採用試験に受かっていたからです。もし、一度目の採用試験で諦めてしまって二度目の試験で受かっていなければ、鈴木さんとの会話は単なる世間話で終わっていたかもしれません。つまり、鈴木さんも上記二人と同様に、親父が努力をしていたからこそキーパーソンと成り得た人物なわけですよ。


親父にとってのこの三人のキーパーソンは、確かに偶然が呼んだ人物かもしれませんが、その人たちを『偶然出会った単なる知人』から『自分にとってのキーパーソン』という存在に変えたモノは、紛れも無く『親父自身の努力』なんですよね。三人とも親父が努力をした後に登場してるんです。自分なりに出来ることをしっかりやって下地を作っておいたからこそ彼らがキーパーソンとしての役割を持ったのです。もし、親父がなんの努力もしない状態で彼らに出会っていたら、彼らは親父の息子である俺に思い出として語られることもなかっただろうし、それどころか親父の記憶からも消えてなくなっていた人たちだったかもしれません。


そう考えると俺も、もしかしたら自分にとってのキーパーソンとなるかもしれなかった人と既に出会っていたのかなあと思ってしまうんです。俺は今まで何かと努力することから逃げ、『どうせ無理』と最初から諦めることが多かった人間です。だから、もし、俺が努力を怠らず、無理だと思うことでも最初から諦めてしまわずに頑張れる人間だったなら、何かしらのキーパーソンに出会っていたのかもしれません。


今まで引きずってきた怠惰な自分が、自分にとってのキーパーソンになるかもしれなかった人をそのまま見過ごし、『ただの知人』や『記憶にも残らない偶然出会った人』にしてしまっていた可能性は否定できません。もちろん、何の努力もなしに運だけで人生の困難を上手い具合にすり抜けていく人もいます。だけれど、初めからそのような単なる運から生まれる幸福を期待して生き続けるのはやっぱり愚かですよね。


『単なる偶然』を『良い意味でのターニングポイント』に変え、そして『単なる知人』を『自分にとってのキーパーソン』に変えていくチャンスを、自分自身の努力によって増やしていくのはとっても大事なことだと思います。怠惰な俺は、未だに自分にとってのキーパーソンには出会っていませんし、自分の怠惰によってキーパーソンとなるかもしれなかった人を『記憶にすら残らないただの人』として見過ごしてきたのかもしれません。


貴方は自分にとってのキーパーソンに出会いましたか?



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ここ数日テキストでロクなコト書いてないな、と思ったんですよ。勢いだけで思いついたことをただ書いてたので。ここ数日のおかしなテキストを読んで精神的に参ってるのかという風に思った人もいるようですけども全然そんなんじゃなくただの勢いだよ。そこで、さっきビルダーを立ち上げて、ここ数日変なのが続いたからもうちょっとマトモなことを書こうと思ってしばらく考えてたんだけど何にも思いつかなかったのね。まあその後思いついたから今こうして書いているわけだけども、それは『マトモなコトを書こう』ってのを考えるのをやめたらフっと思い浮かんだの。


『ちょっとマトモなことを書いてやろう』なんて思った後に一生懸命頭をひねって考えたところでやっぱりダメだね。自然に思いついたことを書いて、結果的にそれがマジメな話になった、というのじゃないと。俺は物書きに特化したスキルを持った人でもなんでもないその辺の人なので無理して書いたって不自然になるだけだし。この話の延長線上にある話でさ。誰かに相談なんかをを持ちかけられたときにちょっと背伸びしてしまうことってない? このコトは旧サイトで一回書いたんだけども、俺はそゆコトがあるんですよ。


相談を持ちかけられた場合じゃなくても、落ち込んでるヤツがいたときとかも似たようなモンでさ。ここで言う『背伸び』っつうのはね。『ちょっと気の利いたコトを言ってやろう』って最初に考えてしまうってコト。俺の場合、一回そういうコトを考えてしまった時点で確実に気の利いたことなんか言えなくなります。一生懸命頭をひねって考えたあとに何か言っても何とも不自然で取って付けたようなことしか言えなくなる。気の利いた事を言う人ってのは事前に『気の利いた事を・・・』なんて考えてから発言してないんでしょうね。そゆことを自然にサラっと言える人は、普通に思ったことを言ってるだけ。その発言を周囲、もしくは相手が聞いたとき、結果的に気の聞いた発言と評価されたってだけで。


俺の場合、気の利いたことを言おうっつう発想の源は、単に相手に対して何か言ってやらなきゃという感情だけでなく、他の人よりも優れたコト、もしくは違うことを言って自分がちょっと特別な人間であることをさりげなくアピールしてやろうなんていう考えがあったりすることもあるのね。これと似たようなケースで、『ああ言えばこう言う』っつうのもあるな。とにかく人と違う意見を言って自分がかぶき者であるのをアピールしようとするっつうの。人気のあるものをあえて叩いて目立とうとするっつうのかな。


本当のところは単に興味が無いってだけなのに、とにかく人気のあるものの粗を探したり、逆に本当は大して好きじゃないのに、他の人が批判するものにあえて肩入れをしたりとか、人と反対のことを言う天邪鬼な行動。それによって人と自分が違う、自分はちょっと特別なんだぜってアピールするの。まあ俺の場合、後者の『カブキ者アピール型』についてはそれほど身に覚えが無いんだけど(いや、それでも第三者から見たら無意識にやってるかもしれないけど)、前者の『気の利いたことを言ってやろう型』の方は凄く身に覚えがある。『アイバって他の人と違ってちょっとすごいじゃん! 気が利くじゃん!』って思われたいという感情が働くっつうかさ。


基本的に自分に自信がなくてそれをコンプレックスに思ってるから、その裏返しでそゆことを考えるのよね。このコンプレックスの裏返しの話は俺の過去の文章で何度も出てきてるけどここで書いていることの根底にもそんなモノが垣間見えるんだなあ。もうそれが自分で大嫌いでね。自分は大したヤツじゃないと自覚している部分もあるのに、ちょっとしたところで背伸びしてる自分に気づく瞬間ってのがホント自分でムカつくんだよ。そんな風に自分が変なところで背伸びする癖があるのに気づいてからは『おいおいちょっと待て。ここは背伸びする必要ねえだろ』って静止することが増えたんだけど、人間っつうのはそんなに簡単に変われるもんじゃないからね。


今日、さっき、テキストを書く際にそれをやろうとしてた自分がいたんだな。バカっぽいことを立て続けに書いた後に、ちょっと毒っぽくてそして鋭いコトをズバっと書くとちょっとカッコイイかも、とか考えてた。でも、そゆことを考えて題材を無理にひねり出した上で何かを書こうとしてもやっぱ全然ダメ。実際に書いたとしたってそういう流れで生まれた言葉はウソ臭くなるのは目に見えてるもの。


ここを見てるのはたかが何百人かだし、こんな個人サイトに綴る文章なんて大した影響力なんか無いんだから、たとえウソ臭いことを書いたってそんなに気にするこっちゃ無いのはわかってるけども、そのようにしてウソ臭く出来上がった文章そのものがイヤなんじゃなくて、余計なことを考えて自分を大きく見せようとしてる自分がすんげえイヤなのね。この『自信のなさからくるコンプレックスの裏返しの行動や心理』ってのは、内省的な文章を書くと何らかの形で必ず自分への嫌悪の原因のひとつとして持ち上がってくる。なんというか、俺という人間にずっとついて回る鬱陶しいテーマのひとつみたいなもん。


今回はたまたまサイトに文章を書くに当たってこのコトにハっと気づいたけれども、日常の中で自分の行動によく注意して観察してみると、些細なところでも結構やってんだよな俺。この変な背伸びをさ。ホントくだらねーよなあ。背伸びして一生懸命つま先で立っても、周りにいる人はちょっと足元を見下ろせばそのつま先がプルプルと震えているのがすぐ分かるのに。


そゆ時の自分の行動や発言は文字通り『地に足が着いてない』のな。



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テメーでテメーのことを毒舌っていうヤツに、ほんっとロクなヤツいないな。



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俺はサイトの文章で世間一般に『当たり前のコト』として認識されているであろうコトをわざわざ長々と書くことが少なくありません。


ただ、その手の文章を書く際は、その当たり前のコトをさも自分だけが発見し理解しているように語り、それを読み手に説いてみせるなんていう態度に陥らないようにすることくらいは考えてるし多くの人がそれを当たり前のコトだととっくに理解しているのを前提として書いているつもりです。


昔は強い口調でテキストを書くことが多かったからちょっと誤解される恐れがあったとは思うけど、それでも『当たり前のコトでみんなわかりきってるコトかもしれないけど』という前提を置いた上であえて書いてた感じ。だから随分昔に2chで『当たり前のことばかり書いててつまらない』って書かれた時は苦笑いするしかなかったよ。『あえて』書いている理由ってのがその人には全然つたわってねーんだなあと。


それでですね。その理由ってのが何かというと、世間一般で当たり前だとされているコトでも掘り下げてみれば人それぞれ捉え方に絶対違いがあるからですよ。その違う可能性のある部分を『俺はこう思うよ』って形にしてるの。ある人がそれをそのまま当たり前だと捉えても、別の人は書き手である俺が全く予想し得なかった部分で自分との違いを感じ取る可能性はゼロじゃない。極端なことを言えばもしかしたらそれを当たり前だと思ってるのは俺だけという可能性もゼロじゃない。だから自分が当たり前だと思って普段あまり気に留めていないことにあえて目を向けてみようと。それによって何かが発見できれば面白いし。


以前俺は、赤いハンカチと青いハンカチのこんなテキストを書きました。そのテキストでの話題は正にこのことです。赤いハンカチは『唯一の事実』、『当たり前のコト』を象徴するモノとして登場させたアイテムです。でももしかしたらそれが唯一の事実ではないという可能性はゼロじゃないかもしれないと。疑う余地が少しくらいあるかもしれないと。一見すると一般的に当たり前のコトとして片付けていることでもよく目を凝らしてみると人によって少しずつ違いがあるものでしょ?と。あれはそんな意味合いのテキストだったわけですがそこでは赤と青というかなり違った色を比喩として用いていたのでわかり辛かったかもしれませんね。同じ赤にすればもっとわかりやすかった。同じ赤でも原色の赤とそうでない赤があるわけで。


でね。当たり前と思えるコトをあえて文章として書こうと思うときは、自分が当たり前だと思ってたコトからかなりハミ出した言動をして他人を傷つけたり、迷惑をかけている人に遭遇した(もしくは目にした)のがキッカケとなっているコトが多いです。その時点でもうその『当たり前のコト』は絶対的なモノではないわけですよね。実際それを理解してない人が目の前にいるわけですから。


そこで俺は考えるんです。


『何故、こんな当たり前のコトがわからないんだろうこの人は』


『何故、こんな当たり前のコトを無視した言動をして自分から恥を晒すんだろう』


『ちょっと待て。これってもしかして俺が思ってるほど当たり前じゃないのか?』


『もしくは掘り下げてみると人によって結構捉え方に違いがあるのか?』


そう考えて実際に文章にしてみるんです。その『当たり前のコト』ってのを自分自身はどう認識しているかを確認してみるんです。目の前にある『当たり前のコト』の自分なりの捉え方、そして他人との微妙なニュアンスの違い、さらにそれは本当に当たり前のコトとして全ての人が理解しその枠に当たり前に収まっているのかなどをね。そんなことをするのは『当たり前のコト』を『唯一の当たり前のコト』として簡単に片付けて、気に留めないでいるのが何となくキケンなことのように思えるからなのかな。『当たり前のコト』を『当たり前じゃん』とただ片付ける行為。それ自体が必ずしも悪いことだとは思わないけど、それが原因で見え難くなってるものがあるのかもなあなんて思うんです。


平凡な主婦が日常の些細なことから日常に役立つ発明品を作って億万長者になったなんて話はよく聞くけども、そういった発明品って実際に見てみると本当に大したモンじゃなかったりするじゃんか。でもそれがあると凄く便利なのは確かだから大ヒットしちゃうの。そういう発明のアイディアってのは日常の『当たり前』の中に埋もれていて、実際大したものではないはずなのにそれまで誰も気づかなかったわけでしょ。例えば洗濯機のクズ取りネット。使ってる人も多いと思うけどあれも主婦の発明品。洗濯機を使った後に洋服に糸くずなんかが付くのは『当たり前のコト』なわけだけど、そこを目を凝らして考えた結果あの発明が生まれた。まー、この例え話はちょっと強引かもしれないけど何となく伝わってることを祈りつつ。


当たり前のコトを当たり前のコトとしてただ一言で片付けてしまうと見逃してしまうコトってきっとあると思うのね。知らず知らずに人とは違った捉え方をしている『当たり前のコト』ってきっとある。その微妙な違いに気が付かないでいると、当たり前だから、なんて言いながら無自覚で自分の勝手な価値観を他人に押し付けたり、違う角度から見ることが出来る可能性を最初から完全否定してしまったりしてしまうかもしれない。『当たり前のコト』を『当たり前だ』とただ一言で片付けてしまうコト。一般的に『当たり前』とされているコトを全て当然に他人と共有しているとはじめから決め付けるコト。そのような行為が『凝り固まった話の通じない人』になってしまう最初の一歩に成り得る場合もあるのかも、なんて思うのです。


俺のサイト上の文章に貴方にとっての『当たり前』はいくつあったでしょう。


俺の思う『当たり前』の数とはかなり違うんじゃないかしら。


え? そんなの『当たり前』だって?



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俺はサイト上で自分の意見をまとめて文章にして発表した上で、自分とは違う意見を見て色々考えて、再びまとめて発表してそしてまた・・・・という行為や、友人との会話で自分の意見を色々相手に伝えるために余計な邪推やら何やら考えて相手の思惑を勘ぐってあーだこうだ考えたりして、それについてまた考えたりしてる。


そういうことをせずにいられないのはきっと自分に自信が無くて外からの共感を得たいからわざわざ自分の意見を発表するのかなとか、自分が他人より鋭い意見を言える人間なのを示したくてそれをするけどそれは結局弱い自分の裏返しの表れなのかなとか、自分は自己確認をしたいのかなとか、それともただ単に誰かに構って欲しいだけなのかなとか、そういうことを考えている。


そんな自分をふと省みたとき。


何かと自分の行動や思考の流れに理由付けを見つけようとして色々考えてる自分が自分で面倒くさくなることがある。面倒くせえから考えたりしゃべったりすんのヤメロやバカって自分に対して思うときがある。この文章を書いている今がまさにそれでこういうことをイチイチ書いている自分もまた面倒くさい。もうホント自分の思考の持って行き方が全部面倒くさい。


そして、今ここに書いているようなことをサイトに載せると、自分は他人よりも色々深く考える方なんだぜ、っていうのを遠まわしにアピールしているように誤解されたらちょっとイヤだなとかまた考える。そしてそんなことを考えている自分が自分でまた面倒くさい。


『自分が自分で面倒くさいという今のこの感情をこうして文章にしている自分』が面倒くさい。さらに『自分が自分で面倒くさいという今のこの感情をこうして文章にしている自分が面倒くさいって言っている自分』が面倒くさい。さらにさらに『自分が自分で面倒くさいという今のこの感情をこうして文章にしている自分が面倒くさいって言っている自分が面倒くさいって言っている自分』が面倒くさい。さらにさらにさらに『自分が自分で面倒く(以下略)。


面倒くさいのを面倒くさいと思うこと自体も面倒くさい。


嗚呼もうっ。



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随分前だけど、ブルース・ウィルスが主演のキッドっていう映画を観ました。夢とか希望とかをすっかり忘れてしまった大人のブルースの目の前に子供の頃の自分が現れて『自分が思い描いていた将来の姿と違う!』って言ったりする物語。


子供の頃の自分との間で色々あって、最終的に大人のブルースは忘れてた『大事なもの』を思い出すっつうお涙頂戴なコテコテ映画なので、鼻に付く人もいるだろーし、嫌いな人は嫌いだろーなっていう映画なんだけどさ。ああ、俺はスゴイ好き。普通に泣いた。コテコテ万歳。


観たのは随分前なんだけど急に思い出してさ。なんつーか、こう、俺みたく社会の底辺に長いこといるとね。色々情けないことを考えるのよね。そーいや子供のころに『10年後の私』とかいう作文を書かされたっけ。その10年後なんてとっくに過ぎてる。まるで別世界に存在しているかのように思ってた『大人の自分』がもう今ここにいるんだよな。そんで思うの。


あの映画みたいに子供の頃の自分が今の俺をみたらなんて言うだろって。それを想像すると背筋が凍る思いがするよ。まあ、なんにしても、子供の頃の無茶な夢を実現しようとかいうんじゃなくて良いから、少しくらいは子供の頃の自分に喜んでもらえる要素を持った人間になりたいもんだなあ。もう無理かなあ。子供の頃の自分と、もし会うことが出来るとしてさ。今の自分で全く問題なく胸を張って会えるぜって人はどれくらいいるんだろ。


少なくとも俺は・・・・ああーやめた。やめやめ。猛烈に切なくなってきた。



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捻じれたモノ。


真っ直ぐなモノ。


真っ直ぐでシンプルなのに意外と難しくって、捻じれていて複雑なのに意外と楽。何でだろう。それは多分、真っ直ぐだと正面から見つめなくてはいけない上に向こうからも真っ直ぐ見られてしまうけど、捻じれていれば自分の目をそらすのにも都合が良い上に向こうからも真っ直ぐ見られないで済むから。


真っ直ぐ見つめて真っ直ぐ見られるのって意外とエネルギーが必要で難しい。でもちょっとヒネって捻じれちゃえばそこから簡単に逃げられる。だから楽チンチン。しかも捻れているのってカッコイイ感じがしてちょっとしたステイタス、みたいな。


捻じれて捻じれて逃げちゃおう。出来る限り楽に生きよう。キミが世界を覗いているその丸い望遠鏡を捻ってしまおう。その捻れた望遠鏡のデザインは真っ直ぐなモノよりも凝っていてカッコイイしさ。捻れば捻るほど向こうからは覗かれにくいし、しっかり見詰めていなくても誤魔化しがきく。目をそらすのにも都合が良い。だから楽。良いコト尽くめじゃん?


ただ。


捻った望遠鏡の視野は予想以上に狭くって、いざという時大変だけどね。



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俺とオマエの違いは何かって?


全てだよ。共有しているものがあるようでも必ずその形は少し違う。一見同じ絵のパズルの同じ箇所のピースでも俺とオマエのピースではピッタリとはまる箇所はひとつたりともない。ピッタリくるピースを持ったヤツなんかいたら気色悪くて仕方が無いよ。そんなコトあってたまるか。


じゃあ、俺とオマエは何も共有出来ないと最初から諦めるのかって?


さあ。どうだろうね。それはオマエ次第じゃないのかな。『相手との違いを認めるコト』と、『相手を理解するコト』とは違う。そんなのガキでも知ってる。相手との違いを認めたってそれがイコール相手を理解していることにはならないことなんかコーラを飲んだらゲップが出るのと同じくらい当然のことだ。そりゃ違う形のピースしか持っていない者同士が全て分かり合えるわけがないかもしれないけどさ。


でも、少なくとも、相手との違いを認めることからはじめなければ、理解しようする努力すらはじまらない。パズルのピースの形はどうあがいても変わらないかもしれないけれど、それがどう違うのか少しくらいは見つけられるかもしれない。俺とオマエの違いをお互いが認め合った上でそこから何かがはじまるんじゃないかな。


相手とのピースの形の違いを認めることすら拒否したらそれこそそこで終わり。



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