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他者との比較。それをする事で自分を見出せるし、自分の位置付けを認識出来る。
俺はそう思っています。
たとえばあいつよりも優れていると他者に誇示する事で自分の価値を自己確認する事。
たとえば他者を批判する事で自分の位置付けに価値を見出す事。
たとえば自分を省みる事で他者よりも自分を客観的に見れるんだ、と自己満足する事。
たとえば他者の振る舞いを目にし、憧れ、真似しようとする事。
たとえば他者との相違に自己満足する事。
たとえば他者に頼られる事で、自分は誰にも頼られないヤツよりも優れていると自己満足する事。
たとえば他者に自分がどう見られているか不安に思う事。
たとえばコンプレックスを抱くという事。
それらは他者があるからこその事です。
でも、俺は自分の信念を貫く事を否定しているのではありません。俺だって自分らしくいたいと願うし、自分の信念を持っていたいと願います。
仕事に就いて、そこでの同僚や上司などの愚痴を飲み会でこぼす、なんてのはよくある話ですね。
では、そんな酒の席で愚痴などをこぼさずに、自分が納得出来る仕事をしている、したいと願う、などと前向きな話だけをするような人は、はたして他者は無関係で自分自身だけの道を歩いていると単純に言えるのでしょうか。
答えは否だと思います。
『自分らしく』『自分の道を行く』などという言葉はやっぱり他者の存在があるからこそ出てくる言葉だと思うのです。まさしくそれは他者を意識した言葉なのではないでしょうか。
もし、はじめから世界中に自分ひとりしかいなかったら。
それが当然の世界に生きていたら。
『自分らしく』なんてことを考えるでしょうか。
他者との比較があるからこそ『自分らしく』なんて言葉があるのだと思うし、自分の存在価値を考えるのだと思います。
その結果『自分らしくいる自分』を実感出来るんです。
だから俺は、他者の影響を完全に否定する事は、自惚れ以外の何物でもないと考えます。 |
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