topimg
俺は見世物?


table     table



ここを見ている人ってのは、何が気に入って毎日チェックしに来ているのでしょう。はじめは何か気に入った文章や、気になった文章を目にしてブックマークしたんだと思います。俺はほぼ毎日ここを更新してます。だから単純に毎日見に来るのでしょうか。イヤ、そうじゃないはず。毎日更新してたって、自分が興味を惹かれなければ、見に来なくなるはずです。


このサイトには現在、それなりの数の常連が存在しますが、その人たちがここをどのような見方で毎日見ているのか、その辺は管理者としてとても気になる所です。何故、毎日もしくはそれに近い頻度で見に来るのか。


俺の文章が素晴らしくて面白いから? 


それとも俺の考え方が一本筋が通ってて感動するから?


純粋にそんな感想を持っている人もいるかも知れませんが、基本的にはそうでは無いと思ってます、俺は。俺の過去のサイトも含めて俺のサイトを長い事見てれば見てるほど、俺が一本筋が通ってると言うには程遠い、隙だらけの人間であるのはわかる筈です。しょうも無い事で急にイライラしていたり、そうかと思えば翌日にはその自分のしょうも無さに気づき、勝手に凹んでいたり。


今まで様々な事柄において俺は自分のサイトの中で勝手に一人で騒ぎ出し、一人で勝手に自己完結し納得していたりと常に俺はフラフラと何かに迷って来ました。そう。俺はそんな人間です。俺のサイトに今まで書かれて来た文章は紛れも無く『アイバ』という未完成な人間の一部分ですし、そんな未完成な部分を覆い隠さずに振舞って来ました。


そして、そんな俺の言動はとても滑稽です。良くも悪くも。ここで言う『滑稽さ』ってのは、悪く言えば人間としての矛盾点や見苦しさ、そして良く言ってみれば、滑稽であるからこその人間らしさという両方のニュアンスを含むとして話を進めて行こうと思います。




多分、常連の皆さんはそんな俺の『滑稽さ』を観察しに来ているのではないでしょうか。




俺の文章は何処からどう見ても素人が書いたモノであるのは誰もが認めるところでしょう。俺は本も読まなければ、ずっと理系の学校で学んで来ていて、人に見せるための文章を書いたりするのはテキストサイトを立ち上げてからがはじめてと言っても過言ではありません。


文章自体は実際たいしたもんじゃないはずです。優れた文章を読みたければ本屋に行って本を買ってくれば済む事ですが、何故かこんな素人の書いた文章を毎日見に来てしまう人が存在するんです。それは何故なんでしょう。


つまり、常連の方々はWEBサイトというオリの中にいる、未完成故の滑稽さを持った『アイバ』という一人の人間の生態を、文章というフィルターを通して観察しに来ているのではないか、と思うのです。その滑稽さそのものに興味を惹かれているんだと思うのですよ。


俺の滑稽さを好意的に見る人、逆に呆れて見てる人など様々でしょうが、興味を持って見に来ている事にはかわりありません。要するに、結果的には文章ではなく俺自身が『見せ物』になっているのではないかと思うのです。それが俺が思うこのサイトにリピーターが存在する理由です。


もっとわかりやすく言えば、小説などは、読み手には、まず優れたストーリーと文章があってこそ喜ばれるものです。読み手にとって、作者のひととなりは全く関係ないでしょう。でも、ここのようなサイトでは、まず作者がいて、その作者の影を文章の中に見出しながら読んでいるはずです。文章が優れていなくても(優れているに越した事は無いけど)、作者の言動に興味を惹かれるモノがあれば気になって見に来るのです。


ここのアクセス数は一般的には多いわけでは決して無いですが、俺にとってはとても多い数だと思っています。俺には充分過ぎる。それだけの人数が見てると思うとそれなりのプレッシャーを感じてしまうのです。たまに俺は、自分がサイト上で見せる俺自身の滑稽さを、自分で非常に気に病む時があります。


俺が感情に任せて取った言動に対してそれをを見てる多くの人が、モニターの前で苦笑いをしているんじゃないか、そんな事をたまに考えるのです。そんな事を考えて、一人で頭を抱えて、後悔したり、苦悩したり。


つまり、基本的には全てをさらけ出しながら文章を書くというコンセプトだった筈が、いつの間にか『一本筋が通った人間』を演じたい、多くの閲覧者にそう思われたい、という願望が俺のどこかに芽生えてしまう時があるのです。それ故になんだかとても息苦しいというか、そんな気分になってしまう事があるわけです。


でも、最近ではそんな時、こんな風に考える事にしています。


滑稽で何が悪い。それが俺、『アイバ』という人間なんだから仕方が無いじゃないか。常に筋を通す必要なんて無いんだ。理屈で片付く事ばっかりじゃないんだから。出来た人間を演じようと無理するのはそれこそ滑稽だ。自然な俺でいて、それが滑稽ならばそれはそれで良いじゃない。そんな滑稽な俺の一部分をこのサイトで見せてやるよ。


こう思うととても救われた気分になるのです。


これは開き直ってるわけでは決して無いです。


例えば、ネット上で、俺より遥かに的確でしっかりとした意見を持った人に、俺が犯したある間違いを指摘されたとします。その時はじめて、その間違いに俺が気づいたとしますよね。その場合、俺はこのサイトを通して多くの人に自分の滑稽な部分を見られた事になります。自分が滑稽である事を多くの人に見られたという事実だけをとても気に病みます。俺の性格上間違い無いのよ、それは。


でもそんな時は、軽く深呼吸して、前述したように考えれば『全く持って俺らしいなぁ、でもこれからは気をつけよう』と、他人に自分の滑稽な部分を見られた事は気にせずに、前向きな方向に気持ちを持って行けるんです。自分らしいが故に滑稽であるなら、滑稽な部分を他人に見られたって別に構わない、それはそれで良いんだと・・・いう風にね。


アイバという未完成な人間の一部分がこのサイトであるのは間違い無いです。


それを温かい目で見るも良し、バカにしながら見るも良し、そんな感じですね。俺だってここを見てる人達全員に支持されてるなんて思っちゃいねえし。けど、俺を快く思っていないのに見に来てる人にはコレだけは言っておきたい。


バカにしながら見るのは勝手だし、公の場でこんなサイトを勝手に公開している俺には貴方に『来るな』と言う権利は無いよ。けど、口だけは出さないで欲しいと強く望みます。嫌いでも気になるっつう心理は良くわかるけど、口だけは挟むなって事。嫌いなら嫌いなりに黙ってみてろってコトだよ。


俺の意見に対して誠意を持った反論が来た場合はコチラも誠意を持って答えるけど、俺という人間を単純に『嫌いだ』と言われたってその人に合わせた人格に直すなんて事は不可能なんだから。はじめて接触する相手に自分の好みだけを持ってしてイキナリ『嫌いだ』なんていうのは理不尽この上ないって事くらいわかるでしょう。


だから俺の事が嫌いなら黙ってみててくれ。貴方がここにアクセスしてるのは紛れも無く自分の意思なわけで、その自分の意思で見に来ておいて『嫌いだ』と言われたって『ああそうですか』としか言えないっつうの。そこから何も議論は生まれないです。何かを直接口出しするのならそれなりの理論を持って来て下さい。それと『嫌いだ』という行為は全くの別物です。


『嫌いだ』と漠然と言われたらこちらはそれにただ不快な思いをするだけです。もちろんそれが目的ならもう何も言わないっすけどね。でも出来ることなら嫌いなら嫌いなりに黙って俺を観察し続けてくださいな。このサイトというオリにいるアイバを観察する際は、そのオリの横にある立て札に書かれている事を出来る限り考慮に入れてくださいってコトでよろしく。その立て札にはこう書かれています。


『観察するのはご自由に。でも興味本位でエサは与えないで下さい。』



table     table
□■BACK■□HOME■□