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誹謗中傷のボーダー


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ネット上での発言について少し考える事があった。その事についてここに俺の今の段階での考え方を書き記してみる事にする。考えた末に導き出した現段階での答えだ。


これから書くのはタイトル通り誹謗中傷のボーダーは何処にあるのかを論ずる文章だ。 この問題はWEBサイトをやっている者のように、公の場で自分自身の言葉を発する機会のある者にはとても気を配らなければならない事だと痛感する。


自分の発言が持つ意味、相手に与える印象。それぞれの価値基準。根底にある美意識。根底にある歪み。多くの不特定多数が目にする場で発言する場合はそれらを考え、そして自分の言葉に最低限の責任を持たねばならないのは言うまでも無い。 自分の言葉を発言する以上、それは最低限のマナーだ。


そして、それが出来ないのならば発言はするべきではない。する資格が無い。 だが、正直な所わからなくなる時がある。俺自身の発言が誰かを不快にしていないか。俺の言葉は果たして誹謗中傷のラインを越えてしまわないように守れているのか。それを心配しはじめると気が狂いそうになる。


いくら気を配って発言したと言っても相手が悪く受け取ればそれはただの言い訳になってしまうとも言える。気を配って発言したんだから許してよ、と言ってるように見えなくも無いという事だ。


逆に、そんな事を気にしていたらなんにも発言出来ないとも言える。けど、そういう意見は見方によってはただの開き直りとも受け取れる。 『価値観の違い』という言葉で全てを済ませてしまうのは簡単だが、そんな事だけを主張していてもなにも生まれない。


だが自分が他人になりきる事は出来無いのだから割り切る必要もあるようにも思える。 つまり、言い方や見方によってどうとでも解釈出来るからこそわからなくなるのだ。


例えば『ブス』という言葉がある。それを言われた人が『ブス』であるという事実は確かにあるのかもしれないが、俺の中ではこの言葉は暴言にあたる。かなり乱暴な発言であると思う。


俺は直接的な『ブス』って言葉はどうも好きじゃない。もちろん使い方にもよるが、視覚的なモノを指して言った場合はやはり暴言だと感じる。たとえそれが事実であっても。


『事実無根の言葉=暴言や誹謗中傷』 絶対にそうとは限らないということだ。たとえそれが事実であっても、自分の中に発言すべきでない言葉はいくらでもある。


何故『ブス』って言葉がヤケに目に付いて暴言と感じるかってのは理屈ではなく『そう感じる』としか言えないからまた厄介なのだ。自分でもなんでそんなに敏感に気になるのか正直わからない。


ではここで俺が以前体験した事を書いてみる。 以前旧サイトの日記で友人をネタにした時の事。 俺は一回、その友人絡みのネタを日記に書いた。俺的にはネタにしてしまって良いかどうかっていうボーダーラインギリギリの凄いネタだった。


凄いというよりも、本人がきっと恥ずかしいかもなというギリギリのラインの話題だった。 それは俺の判断でギリギリ大丈夫という結論が出たために公開に踏み切った。


そして後に、本人にネタにした事を話したところ、特に気にしている様子は無かった。日記も実際読んだみたいだったけれど、笑っていて気にしている様子は微塵も無かった。


そしてその後にまた違う話で同じ人物をネタにした事があった。それは、前回の話題よりはずっと恥ずかしくないだろうし、俺の判断基準で判断すれば全然ネタにしてもオッケーでしょうというネタだった。


つまり、前回のアレがオッケーなら今回のは絶対オッケーだろうという判断だったのだが、実際は本人はそれを見て非常に不快に思ったらしく、直接、嫌な顔で抗議されたって事があった。


俺がその時日記に書いた内容は紛れも無い事実で、実際にあった事だ。だが話題にされた本人はそれを良しとしなかった。 その時点でそれは彼にとっては暴言になったのだ。


だから俺はちゃんと謝罪をした。 しかし、ここでひとつ言いたい。 謝罪したのは相手を不快にさせてしまった事実を素直に申し訳ないと思ったからに他ならない。だが、相手の判断基準を自分の判断基準として吸収したわけではないのだ。


価値観の違いによって相手を不快にする場合もあるという事実に素直に反省しつつも、その他人との価値観のズレそのものを修正する事は出来ていないんだ。というか出来ないんだ。その出来事を境にボーダーラインが以前と変わったわけではないって事だ。


だからそれ以来、ちょっとでもネタにしても良いか判断に困ったら本人に確認をとるようにしてる。だって相手のボーダーってのがやっぱり自分とは違うし、あまりにも微妙なズレだからはっきりと見えないんだよ。


んじゃ、また別の例。


以前WEB上でこんな意見を目にした。概要は以下のようなもの。


『JPOPを真顔で批評してるヤツを見た。JPOPをキライって言うのはただの悪口じゃないか。イヤなら聴かなきゃいい。見てて苦笑いしちゃった。』


これを見て俺は、それは極論過ぎるだろ、と感じた。これでは自分が好意的に思えないモノに関しては一切発言するなって事になると。


俺の感覚で言えば、『批評するにしてもそれが単純に悪口とは言えなくて、言い方にもよるんじゃねえかな』と思ったわけだ。 つまり。 『****(←アーティスト名)はキライ!最低!ブス!』 っていう書き方をすればそれはそりゃあ悪口だ。


これがブラックジョークだという意見もあるが、その発言の前後の発言を見れば悪意無くジョークとして言ってるのか、ただ何も考えず言い放ってるのかくらいは感じ取れる。俺が引っかかるのは後者の方だ。


一方。 『****はどうも好きになれません。何で売れているんだろうか。俺の感覚だと理解できない。』 っていう表現をすればひとつの意見、感じ方であると俺は思う。これは、少なくとも俺には、言葉を選んで慎重に発言しているように見えるから。 これも理屈ではない。『そう感じる』という漠然としたモノだ。俺はそう感じてしまう人間だというのは動かぬ事実。


でも、その反面『どっちの発言も概要は同じで結局は誹謗中傷だ』と言われればそう言えなくも無いな、という思いもある。 要するに、条件反射的に感じてしまう感情と、理屈ってのは必ずしも一致しないってことだ。


さらに別の例。


クソゲーレビューなどはどうだろう。 メーカーが一生懸命作ったものをケナしてるわけだ。書いている本人にしてみれば悪意があるわけでもないだろう。 だがいくら悪意が無くても見る人によっちゃ誹謗中傷になり得るモノであるのは間違いない。


俺はクソゲーレビューを見て不快に感じた事は殆ど無いし普通にネタとして笑いながら見ることが出来る。 しかし。 俺とは逆に条件反射的に不快な感情が湧きあがってしまう人だっているだろう。


しつこいようだがそれも理屈じゃないんだよ。その人の持って生まれた感覚なんだ。 そんな事を考えていて、ある意味その辺のボーダーラインは存在しないと言えるのだな、と強く思った。


多数派の考えと自分の考えが一致すると人は安心感を得るが、自分が少数派だったなら疎外感を受ける。 そして、その疎外感からそれを直そうとする人もいる。ことに俺はそういう部類の人間だ。


もちろん自分の考えが少数派になった理由にも色々なケースがあるだろう。自分自身で見詰めなおし、直したいと思う場合もあれば、直しようが無い場合もある。 でもそれが『考え』ではなく『感覚』だったなら話は変わってくる。


ここでこの文章の冒頭に書いた一文を思い出していただきたい。


『考えた末に導き出した現段階での答え』


この『考えた末』というのは一体どういうことか。 ある一人の人間の考えってのは、様々な経験や出来事によって常に変化するものだと思う。 しかし、『感覚』というものは自分の意志ではどうも出来ない。心の奥底に根付いているモノだから。


例えば、理屈では相手は悪くないのはわかっているがどうしてもムカツク、なんて事があったとする。 そういうのが正にその人の根底に根付く感覚だ。


勝手に湧きあがって来る感情は理屈じゃないんだ、結局。


『考えた末』・・・それはその人の根底にある『感覚』を持ってしての行動であり、その『感覚』に支配された思考しか出来ない。考えが変わるという事が起きたとしても心の奥底にあるその人独自の『感覚』自体は変わっていないんだよ。


俺のバイト先の人に誰から見ても感覚がズレてる人がいるのだが、やはり何度注意しても同じ事を繰り返すらしい(仕事上の失敗とかではなくその人の行動や発言に対して)。 それには他の人は完全に諦めてしまって、適当に話を合わせて聞き流す状態になっている。


その例は、他の人との感覚のズレが余りにも大きい為にとてもわかり易い形で表に出ている例だが、前述した俺と友人との微妙なズレの場合は、意外とハッキリとした形で見えないものなんだ。


結局はその人間の根底にある『感覚』に本人が逆らう事など出来ない。 つまり、しばらく考え色々と手探りをしても、どうしても納得が出来ない場合は、もうそれが自分の生まれて持った感覚だと諦めるしかない部分もあるんだよね。


一般論なんてものは実に曖昧なものであるから、してはいけない発言のボーダーラインの位置も一人一人で作り出すしかないのだけれど、そのボーダーラインは自分の意思で自由に書き換えられるようなもんじゃない、もっともっと深い所にあるモノなんだと思う。


つうか、そのラインってのは直線とは限らないし、ましてや一本の線とも限らない。途切れ途切れになってるかもしれないし、丸い円で囲まれてる部分もあるかもしれないんだ。


だから、他人のラインの向こう側はひとつじゃないし、他人にはそう簡単にみえるもんじゃない。 だからこそ自分の意見を他人に伝えるのは難しいし、面白いのかもしれない。


もし誹謗中傷にならないように注意して、これは問題ないだろうと確信を持って発言したとしても、それはその人の『感覚』に支配された判断基準でしかないわけだ。 ある人がその発言を誹謗中傷だと訴えたなら、それはその人にとっては誹謗中傷になるのだろう。


持って生まれた『感覚』に支配されながらも、精一杯自分なりに注意を払って発言してもなお、それは中傷だ!と言われてしまったら、やはり諦めるしかないのではないかと思っている。


これは開き直るってのとは違う・・・と、そう思いたい。 自分と違う『感覚』をひとつ残らず全て理解しようとすると自分が潰れてしまうから。それで良いんだと思うようにする。


これが俺の『考えた末』の答えだ。



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