トップイメージ
L O G - 0 0 1

table     table



■2004/02/07 [ Sat ] - リニューアル
久々に当サイトのメインコンテンツであるところの『リニューアル』を更新しました。おめでとう俺。もっと時間かかると思ったんだけど複数のファイルの文字列を一度に置換したり削除したりするフリーソフトを上手いこと使ってサクっと楽に出来ました。いやー良かった。

実のところそのようなフリーソフトはメインコンテンツが『リニューアル』のサイトをやっているのだから随分前から当然のように使ってるわけなんだけど、ずっと昔はそんなの知らなかったので全部手作業でやってて死にそうでした。フリーソフトって侮れないよね。今回のリニュで文字列置換削除のフリーソフトを奨めてくれた方がいたのだけど、今回は前から使ってるモノを使用しました。アドヴァイスのお気持ちはとても感謝です。サンクス。<私信

というわけで『リニューアル』はほぼ完了です。見ての通り昔のビックリマーク二個の時の『マダファカ!!』に近づいた感じ。サイト名は『マダファカ!!!』で、ビックリマーク三つが正式名称です。バラバラだったサイトをひとつに統合してコンテンツを整理しました。ゲームや音楽のコンテンツは全て残ってますし、時間があればゆっくり更新していきます。つまりのところ無くなったものは無いです。構造とか変わっただけ。今までテキストに混ぜて書いてた趣味の話題は『マダファカ!!』の頃のようにわかりやすく分けました。その関係でコンテンツが増えましたがやることはVGAの時と大差ないです。

で、音楽だけは手作業でコピペや文章そのものの書き換えをしないといけないんで今はまだ出来上がってません。VGAに載せていたレビューは今のところは引っ込めてあります。その内今のレイアウトの方に移しつつ復活させます。つまり音楽は今の段階で見るところは少しだけしかありませんがご了承ください。っていうか、音楽コンテンツはそんなに見てる人はいないだろうけど。それとあいぼんのおへやも一応残してあります。そんなわけでよろしく。

いくら迷走しても結局マダファカの形態に戻ってくるんだよなあ。



table     table


table     table



■2004/02/08 [ Sun ] - 人生のドラマと線(リライト)
今回は以前書いたテキストのリライトです。最初に書いたときに結構評判が良かったのですが、過去ログを紛失してしまって再掲載することが出来なかったモノです。で、微妙にリライトを要望する声もあったりしたのでここに改めて書き直すことにします。趣旨は以前と変わらないけど、記憶だけで全く同じ文面にするのは無理なので以前と文章自体はかなり違いますがご了承ください。

閑話休題。

人々は人生の中で多くの人と出会う。直接自分と関わる人々だけではなく、街を歩いていてすれ違う人、たまたま同じ電車に乗り合わせた人なども含めれば数え切れない人々と出会っている。だけれど、街で一瞬すれ違うだけの人のことなどは覚えていない。偶然同じ電車に乗り合わせた人のことも、その瞬間に顔くらいは見るかもしれないが翌日にはすっかり忘れていることが殆どだろう。

ある日、俺は一人で電車に揺られていた。俺の目の前には女性が座っていた。その横には忙しそうに仕事の書類か何かを引っ掻き回している男性が座っていた。もちろん彼らの名前は知らない。そのとき、ほんの一瞬同じ空間を共有しただけの、俺とはなんの関係も無い人たちだ。俺は彼らを何となく眺めていた。その時にふと思ったことがある。俺は彼らの名前も年齢も何も知らないし、彼らだって俺のことなんか知らない。でも、今のこの一瞬はお互いの『人生の線』が交わっている瞬間なんだなって思ったんだ。

線と線はひとつの点で交わる。小さな一点で交わる。
その点が俺が電車の中で彼らと共有しているこの瞬間だ。



矢印


俺と電車の中で出会った彼らとの人生の線は恐らくはもう二度と交わることは無い。お互いが交わるのは今のその一瞬だけだろう。でもそこで少し考えた。確かに俺と彼らの人生の線が交わるのはこの一度きりかもしれないけど、この一瞬に至るまで、俺の線も彼らの線もずっと続いていたモノなんだなって。そしてその後も続いていくんだなって。生まれたその日から全ての生き物は人生の線を引っ張りながら生きているって考える。そしてその線が交わったり、平行に進んだりする。平行に進んでいる時は、同じ学校に通っているとか同じ職場で仕事をしているとかそんな場合だ。そしてお互いの環境が変われば再び線は離れていく。


矢印


そのとき俺の目の前にたまたま座っていた女性のことを俺は何も知らないけれど、彼女も人生の線を持っているのは間違いない。俺の線と交わっている一点の前にも長い人生の線が引かれている。俺にはその内容を知る術はないけれど、間違いなく何かしらの人生の線がある。彼女が生まれたときには何かしらのドラマがあったかもしれないし、今も人生のドラマの重要な一場面かもしれない。その横に座っている忙しそうに書類を見ている男性だって同じだ。彼だってあるドラマの主人公だ。そう彼の、彼による、彼だけのドラマの主人公。

そして俺は彼らの人生のドラマの線の一点にだけ登場した名も無きエキストラ。もちろん俺は彼らのドラマの中で大活躍なんかしない。ただのエキストラだ。だけど、一瞬とは言え間違いなく彼らのドラマに出演した人物だ。俺にとっての彼らも同様に、俺のドラマの中にちょっとだけ出てきたエキストラだ。俺のドラマの中で、彼らが直接活躍することは無いけど、そのときの一場面で彼らを見ていた俺は今ここに書いていることを考えるキッカケを与えることになった登場人物だ。主人公である俺の思考の流れに少しばかり影響をあたえる役割を持っていたとも言える。

生きていれば孤独を感じることもある。自分が今日死んでも広い世界には何の影響も無いと思うときもある。地球やそれよりももっと大きな宇宙のことなどを頭に思い浮かべて途方も無く広い空間に自分がポツンといる、なんていう風に考えると自分が小さくて弱くて、そこにいてもいなくてもどっちでも良い存在のように思える。つまり下の図のように広い空間にポツンと自分がいる感覚だ。俺は落ち込んでいる時や辛いときにはそういう風に考えてしまいがちだった。






でも俺は電車の中で偶然出会った彼らを見ていて自分の存在は点じゃなくて線だと考えてみようじゃないかって思ったんだ。その線は人生のドラマの線だ。他の誰かに見せるためのドラマじゃない。他人にしてみればとても地味で面白くないドラマかもしれないけれど、生まれたそのときからはじまった自分だけの大切なドラマだ。自分が主人公の自分にしか作れないドラマ。広い空間に小さな点がたくさんあるんじゃなく、多くの人生のドラマの線が交わったり離れたりしているって考える。無数の人生の線がたくさん行き交うって考える。

例えば夏の日に殺した小さな蚊にもその線はあって、巨大な人間に潰されるその瞬間まで蚊は蚊なりにドラマの線を引っ張っていた。その蚊のドラマの最終回は巨大な生き物に潰されるという壮絶なラストシーンを迎えたドラマだ。もちろん多くの人はそんな小さな蚊の生き様なんか関心は無いだろうし、蚊自身もそんなものは意識して生きてはいなかっただろうけど、そこに小さな、でも壮絶なドラマがあったのは間違いない。

例えばエレベーターに乗っているのは自分だけで、向こうからそのエレベーターに乗るために走ってくる人が見えたとする。扉を開けるボタンを押して少しだけ待てば、走ってくるその人はエレベーターに乗ることが出来るけれど、自分はちょっと急いでいてその人を無視してしまうなんて場面があったとする。

エレベーターの扉が閉まってしまえば走ってくるその人は自分にとっては居なくなったのと同じで、小さな点同士である自分とその人は関わることなく離れていくように感じる。けど、その人が人生のドラマの線を引っ張りながら生きているって考えて、自分は彼のドラマの一場面に登場したエキストラなんだなって考えてみる。そうすると、彼のドラマの一場面でちょっだけ気の効くエキストラになってみようかななんて思えてくるかもしれない。エレベーターの扉を開くボタンを押してあげられるかもしれない。小さくてどうでもいいような親切かもしれないけれど、そういう積み重ねって結構大事なんじゃないだろうか。

生き物はお互い点じゃない。線だ。自分と交わっている一瞬以外にも相手の線はずっと続いているモノ。そう考えれば、一瞬だけ出会った人にも優しくなれる気がするんだ。お互いの線が交わった後、線の先についている矢印の先端は離れていっても、交わった部分はずっと交わったままだ。お互いの人生の線を遡ってみれば交わった部分が残されている。それが思い出しもしない一瞬でもお互いの持つドラマが交わったという事実は動かない。他人のドラマに一瞬でも出演しているなんて、それだけでドラマティックじゃないか。

後に多くの人に語られるようなドラマを持った偉人なんかもいるけれど、人生のドラマってのはそれ以外にもいっぱいあって、自分自身もその中の一作品の主人公。他の誰かに楽しんでもらえなくても自分自身しか演じられないドラマがあるってだけで素晴らしい。そしてそのドラマの線が他人のドラマの線と交わった時、それが例えほんの一瞬であったとしてもエキストラとして他人のドラマに出演しちゃえるなんて、それもまた素晴らしくてドラマティックだ。今日も俺は人生の線を引きながら生きている。自分にしか演じることの出来ない自分だけのドラマの線を。

ちょっとした困難にぶつかった時には、自分は小さな弱い点だなんて考えず、長い長いドラマの線の途中にいるって考えてみよう。ドラマってのは困難があるからこそ盛り上がるもの。その困難があってこそ自分が主人公のそのドラマが盛り上がる。その困難は広い空間にポツンとある動かない小さな点に降り掛かった災いじゃない。クライマックスに向けて常に進行している長い長いドラマの線の途中にある最高に盛り上がる名場面だ。そう思えば『イッチョやってやるか』なんて思えるかもしれないじゃない。困難にぶつかったとき俺は自分にそんな風に言い聞かせようと思うんだ。

俺たちは点じゃない。線だ。ドラマティックな線だ。



table     table


table     table



■2004/02/09 [ Mon ] - 個人サイトに求めるもの
最近の俺のサイトってイマイチ勢いが無い気がする。個人サイトの文章ってそれ自体の質を上げることに拘りすぎて文章を書くときに慎重になり過ぎたり、載せる話題を慎重に選んで無駄を省いたりすると、仮に文章のクオリティーが上がったとしても勢いが減退するからあまり面白くなくなる気がする。

単なる一個人の文章系のサイトだとモニターの向こうに生きた管理人が居るっつう感触がかなり大事で、話題を変に選別したりクオリティーの高い文章にしようなんて思うと(それが実際にクオリティーの高さに繋がっているかどうかは別として)そのモニター越しに伝わってくる体温のようなものが変なフィルターを通過してしまって伝わり難くなるのかもしれないね。

リニュ前のVGAの後半では後から自分で読んで恥ずかしくなるような、勢いだけで書いた文章は極力載せるのをやめようなんて思ってた部分があるからなんだか勢いが無くて活き活きしていない気がする。一番勢いがあった頃の日記のログ(1999年から2001年くらいまでかな)は確かに今自分で読むと物凄く恥ずかしいんだけど、とても活き活きしているように思うよ。無駄なこともいっぱい書いてあるし、単独の読み物として成立しないようなヒトリゴトみたいなことも沢山書いてあるけど、そこには確かにそのときの俺の体温っつうか感情ってのが色濃く反映されている。

もう結構前だけど、個人サイトの文章を批評するようなサイトが沢山出てきた時期があったけども、そゆのに自分から批評してもらうように依頼して、その評価を気にして色々考えて文章のレベルをもっと上げようなんて考えるのは、どこぞの誰がやってるかわからんような個人サイトにおいては、なんかちょっと違うんじゃないかなあなんて改めて思ったよ。無駄があってもイイし、ヒトリゴトが多くてもイイし、少々文章が変でもイイ。そういう一見無駄な部分を排除することに拘るよりもモニター越しに書き手の感情や体温のようなものを読み手に伝えられるサイトがやりたかったはずなんだよな俺は。

最近は更新しようとして『書くほどのことじゃないか』なんて思って、書きかけた後にボツにしたり、書き終わった後に『まとまってないなあ』と思ってボツにしたりすることが増えていた反動で、ナンだかそういう基本的なところを急に思い出したりした。



table     table


table     table



■2004/02/10 [ Tue ] - 僕と彼女と彼女の生きる道
やー。いいドラマだなあ。僕と彼女と彼女の生きる道。話につながりは無いけど一応前作にあたる『僕の生きる道』も結構好きでした。でも、今回の方が何倍も好き。あんまり泣くような場面じゃないっぽいところで泣いたりしてます。小雪が『どの道を選ぶのが大事なんじゃなくて選んだ道でどう生きるかが大事』って言ってた場面とか泣くとこじゃないのに泣いてしまった。リンちゃんが可愛すぎる。リンちゃんが泣く場面だけで泣いちゃう。今日も良かった。でも凄いトコロで終わるよな。あんなの来週見るに決まってる。

家庭教師役の小雪に昔からの男友達から電話がかかってくるタイミングと、草薙くんから電話がかかってくるタイミングを『風呂上り』という全く同じシチュエーションにして、そのときのレンスポンスの違いを対比する描き方とか素晴らしかった。そういう言葉で説明しないで心情を描くみたいなのを色々入れてるのがとても良い。今のところ前作よりクオリティーはずっと高いと思う。DVDになったら集めたい。

草薙くんと同じSMAPのキムタクのドラマとは雲泥の差だなぁ。別にキムタクは嫌いじゃないけど、キムタクにああいう安っぽい役をやらせるドラマを作ってる人は嫌い。カッコイイ男ってああいうんじゃないと思うんだけど。『プライド』を見てるとその辺なんか履き違えてるよなあなんて思ったりなんかする(見てるのかよ)。最近観たドラマで最低の部類だよアレ。



table     table


table     table



■2004/02/11 [ Wed ] - サイトの歴史を整理したよ
リニューアル後に旧サイトのログがゴチャゴチャしてしまったので整理しました。大分わかりやすくなったんじゃないかしら。キュウテキのメニューページを色々並べ替えたり、複数のディレクトリに分散してたファイルをひとつにまとめたりとかしました。水面下で構造がかなり変わってます。ビルダーの機能を使ってファイルを移動させると勝手にリンクの関連付けも変更してくれるんで大した手間じゃなかったけど。

で、キュウテキのメニューを整理しただけでなく色々と文章を書き換えたりもしました。メニューページの頭のところにめまぐるしく変化してきたサイトの歴史をまとめたんで興味のある方は読んでみてください。今まで殆ど書かなかった事実なんかも少し書いてありますよ。

さらに、昔を思い出しながら一番最初の『モウのクソゲーページ』の頃のレイアウトを再現したファイルを作ってみました。最初はこんな感じだったんだよーっていう感じでね。当時のファイルが残ってるわけじゃないんで当時を思い出しながら改めて作ったものだけど、大体雰囲気は出てると思う。現在との余りの違いに驚かないように。そのファイルはキュウテキの上部に書いたサイトの歴史に関する文章の中からリンクしてあります。あと、いつまでも空っぽなのもナンなのでシュミのコーナーのOTHERSとMUSIC DAYも更新。



table     table


table     table



■2004/02/11 [ Wed ] (2) - 今日考えたこと
またサイト名変えたら面白いかな。

閑話休題。

なんだかんだ、メンツって何かしらの形で拘ってしまう人が多いだろうなあ。でも時々メンツなんか無ければ気楽なのになあって思います。立派な仕事に就くことは、金銭的に豊かな生活の為に必要なことだけれども、それと同じくらいメンツってのに拘ってエリートであることにしがみついている人もきっといる。エリートであることを誇りに思うことは悪いコトじゃないけれども、それによって自分よりも収入の少ない人や、学歴が低い人を蔑むような態度をとる人はきっとメンツがとっても大事で、色んなものに縛られて生きていてとっても大変。

とってもやり手で、他人を出し抜くことばかり考えている人は確かにバイタリティーに溢れていてスゴイ。そんな人もきっとメンツがとっても大事で、相手に譲ることを知らなくて、意外と肝っ玉が小さいヤツだったりして。

俺は社会的に落ちこぼれた人間なので、こんなことを言っても単なるひがみ根性丸出しにしか見えないだろうけれども、エリートが全てイケナイだとかそういう話じゃなくて、俺のような落ちこぼれでもそれはそれでやっぱりメンツみたいなもんがあって、どうしてこんなに自分を情けなく思うのか、どうして色々なコンプレックスを必要以上に抱えているのか、って考えると、やっぱりメンツみたいなものが気になるからなのかなって思う。

つまり、仕事とか実際そんなにこだわりがあるわけじゃないし、お金だってそんなに沢山欲しいわけじゃない(普通に暮らせるくらいは欲しいけど)。だけれど、ある程度は社会的に恥ずかしくない仕事につきたいって考えて試験を受けたりしているけれど、実際問題その仕事自体をやりたいっていう気持ちがあるかどうかはちょっと疑問。要は他人から見て『ええーそんな仕事してんのー!?』ってバカにされない程度の仕事に就いてそれなりのメンツを保ちたいっていう部分だけなのかなって。それにそゆトコだけじゃなくて、色んなところでメンツメンツメンツメンツって。

『バカって思われたかな?』
『嫌われたかな?』

そういうこと今まで何万回考えたろう。そゆことに何度怯えただろう。

けどなあ。メンツってのが無いといつも逃げて逃げてそれでいいやってなってしまいそうだし、『別にそういう小さなことは気にしてない』って言って、それが本心だとしても自分が気が付かないうちにただのフヌケになってしまいそうだし、なんだか難しいなあって思う。自分にとって本当に拘るべきメンツってなんだろ。

そういうのを見極める能力って、人間には当たり前に備わっていそうだけど、意外とそうでもなくて、少なくとも俺には欠けているところがあって、こゆことを考え出すとなんだか何処に拘って何処に拘らなくて良いのかわかんなくなったりする。俺はどういう風にしたくてどういうことに拘って何処を切り捨てれば良いのか、いまだによくわかってないのかもしれない。あー。よくわかんない。

ここ最近、書いたは良いけど『まとまってない』とか『書くほどのことじゃない』ってボツにする文章が多いってこの前書いたけれど、まさにこういうのがソレに該当したりなんかして。それもまたメンツみたいなもんが関係してるのかもなあって今思った。なんつうのか『こんなこと書いてコイツはバカか』とか『青臭いヤツだなあ』とかそういう風に思われたらちょっと恥ずかしいしメンツが傷つく、みたいに考えている部分もあるのかなって。ホントはアップしたいけど黙ってりゃそう思われる危険はないし黙っとこうみたいな。

あーよくわかんない。でも今回はアップしちゃる。



table     table


table     table



■2004/02/17 [ Tue ] - 雑記
なんかね。トップのレイアウトがしっくりこないんですよ。それでまた直そうと思ったのだけど、いくらやってもしっくりこない。イライラしながらいじってるうちに昔のマダファカにさらに近づいちゃったよ。結局これかー。こんばんわアイバです。

それとさ。全然関係ないけど、『僕と彼女と彼女の生きる道』の展開がツライよー。いっぺんに問題が起こりすぎだよー。今まで安心して見てられたのに今日の回から心配で心配で目をそらしてしまう場面が増えたよー。もっと平和にいこうよー。みんな修羅場だよー。今更出てくんなよRYOのヤツよー。ぶっ殺すぞ! 因みに俺修羅場だよ。こんばんわアイバです(二回目)。

ところで就職試験が全て終わったんですよ。もうチャンスは無い。今回一次が受かってりゃ二次があるけど、勉強を伴う試験はすべて終了です。で、落ちるにしても受かるにしても今度こそは社会復帰しなくちゃいけないんで、二次に進んだことも考慮に入れつつブクブク太った体と衰えすぎた筋力を克服すべく色々やってます(二次では体力試験とかあるんだよ)。落ちた場合を考えて仕事を探したいのはやまやまなんだけど、試験結果が出ないとどーにもこーにも。仕事の面接で『試験の結果が出るまで待っててください』なんて言える訳ないし。

で、下半身の筋力の衰えが酷すぎるんで、とにかく歩くべし! 歩くべし! 歩くべし! 歩くべし!!!! というわけで、試験の翌日、つまり昨日から歩いてます。ひたすら。とりあえず家から池袋まで歩くべし!! 昨日は本を沢山詰めた重さ10キロのカバンを背負って出発するも、ただでさえ体が重いのに、そのカバンの負荷が予想以上に凄まじく、3時間歩いたところでグロッキーになってその地点の最寄の駅から電車で帰ってきた。死ぬかと思った。

そして今日は、カバンの中身はCDとCDプレイヤーだけにして出発。4時間半かかって池袋にたどり着きました。マメが出来た。筋肉痛になった。すごい疲れた。帰りも歩くなんて不可能なんで帰りは電車。んで、帰ってきてから腕立てと腹筋をやって風呂に入ってもうグッタリです。痩せるよ? 鍛えるよ? 試験前よりも疲労してるよ? ツライよ?

んでもって、目的地が何故池袋かっつうと、池袋の西武デパートの屋上のたぬきうどんを食うのが目的だからです。300円なのに美味いんだよ。オススメだよ。4時間半かけて300円のたぬきうどんを食いに行く俺はすごいカッコイイと思います。自分大好き! 死ね俺。足が痛いよー。予想以上に衰えてるよー。なんか今日の文章テンションが変だよー。因みに明日は歯医者に行きます。ヤダー。



table     table


table     table



■2004/02/18 [ Wed ] - 麻酔が切れて今とても痛い
いかがなもんでしょ。いかがなもんでしょ。またトップ直した。以前のデザインはどうやっても騒がしい印象になっちゃって、なんでだろーって考えたらロゴがデカ過ぎたんだなということに気づいて一回り小さくしつつ全体をシンプルでコンパクトな感じに直した。ますます旧マダファカ化。やっぱりこれかー。

歯医者にいったら根っこが半分だめになってるって言われて二股に分かれてる根の部分の片方だけ残して引っこ抜かれました。歯医者に行くハメになるたびに『これからは食事のたびに歯を磨こう』って思うんだけどなかなか続かないんだよね。俺は朝しか磨かないことが多いです。夜は磨かないで寝ちゃうことが多い。ヤバイよね。言うまでも無く歯って凄く大事なものだからもっとケアしないとなあ。このままだと総入れ歯の日もそう遠くないかもな。やだー。

あと今日もいっぱい歩いた。



table     table


table     table



■2004/02/18 [ Wed ] (2) - 街で見かけたこんな人
1.今日、とある公園を歩いていたら胸の位置で両手をしっかり組んでお祈りしてるようなポーズで歩いてくる男性とすれ違いました。すれ違いざまに彼が何かを言っているのが聞こえました。『”#$%&’’%&$%#・・・・』。な、何語だ。もしかしたら彼は宇宙人なのかも。何かを呼んでいるのかも。もしかしたら、近いうちに仲間の宇宙人が来て地球が大変なことになるのかも。

2.昨日、電車で俺の目の前に座った女性の心が死ぬほど狭かった。彼女の隣に座った人の服が少し彼女に触れただけで、露骨にものすげぇ嫌な顔をしたりして何かこう心に全く余裕が無い感じでした。で、まん前に座ってた俺はその女性が『もー!なんなのよー!!』みたいな顔をしているところをジーっと見てたら彼女と目が合いました。彼女はその後寝たふりをしてたけど彼女はどんな心中だったのかしら。

とりあえず、そゆちょっとしたトコロで人間の本性みたいなもんが出ることも少なくないんだよなーって思ったりなんかしました。逆に言えばそういうところでちょっと心に余裕を持って『まあいいか』と思うように心掛けると少しずつ自分を良い方向に変化させることも出来るのかもね。

ちょっとだけ自分が引けば良いだけのことで、自分が引くことによって特に自分に不利益があるわけじゃないコトならちょっと引いてみると、地味なところからではあるけれど、心がほぐれてきたりするのかも。音楽なんかで楽曲が全て押し一辺倒だとアグレッシヴではあるけど、ずっと聴いてると鬱陶しくて飽きてくる。人間も押しばっかりで引きを知らないとどんどんつまらんヤツになるのかな。



table     table


table     table



■2004/02/18 [ Wed ] (3) - 更新頻度高いな
こんばんわ。今、俺、全裸です。現在、夜中の3時です。

実は、今日はくたびれたんで風呂は明日の朝でいいやもう寝ちゃえと思いつつ、寝る前に自慰行為でもしようということで、自分を思う存分慰めたのです。で、オシッコをしてから寝ようと思いトイレに入ったら、自慰行為の直後だったからか、オチンチンに陰毛が絡んでまして、オシッコがトンでもない方向に拡散しちまいましてね。まいったことに。

その拡散オシッコがなんとズボンにジュバーっとかかりましてですね。ついでに俺の生足にもドギャーンっとかかりまして。風呂に入らないで寝ようと思ってたのに、既に寝る気まんまんだったのに、風呂に入らざるを得ない状況に追い込まれたわけです。こりゃたまりませんな。まいりましたですよ。

んで、家族が一度風呂に入ってるはずなので既にお湯は沸いていて、少しぬるくなっている程度だろうと確信を持って全裸になって風呂に突入したら思いっきり水でした。こりゃたまりませんて。仕方なくシャワーだけにしようと思ったのですが、今日は昼間いっぱい歩いて足がくたびれているので、どうせならお湯につかりたくなりました。でもとりあえずはシャワーで体やら頭やらを洗いました。

浴槽の液体は水の状態から沸かしなおすよりも、一度水を抜いて『自動ボタン』を押してお湯を直接注入した方が、ずっと早く浴槽が暖かいお湯で満たされるので一度水を抜き、空っぽの浴槽に体育座りで待機しつつお湯が満たされるのを待つことにしました。そして自動ボタンを押し、数センチお湯が入ったのを確認してから浴槽に腰を下ろそうとしたら足を取られて転びました。殆ど空っぽの浴槽の中で。その際、お尻と腕を強打したわけです。こりゃまいったねこりゃこりゃ。

で、なんかこうやり場の無い怒りがこみ上げてきたのですが、グっと我慢しつつ潔く一度風呂を出てお湯が満たされてから再び風呂場に行こうということにしました。その間は全裸で家をウロウロしたり、チンコを振り乱しながらタバコをすったりしたのですが、まだまだお湯が満たされない様子なので、今コレを書いているわけです。それで今、俺は全裸なのです。マジなのです。チンコ丸出しなのです。

寒いんですけど。

オチンチンがゾウさんの鼻みたいになってきたんですけど。

どーしよう。



table     table


table     table



■2004/02/20 [ Fri ] - 自分の言葉は自分を煽る
モヤモヤしたモノを自分の中に溜め込むとあまりいいことはない場合が多い。だから、時には一杯やりながら愚痴るのも良い。俺のように文章のサイトをやっているならそこにその思いをぶつけるのも良い。そんな風に外に向けて自分の抱えたモヤモヤを形にして吐き出すのは自己防衛として多くの人がやっている行為。

だけれど、時にはそれが自分自身を悪い方向に煽ってしまうこともある。言葉として、文字として、外に向けて吐き出すとそれがさらに自分を煽り、そして蝕んでいくこともある。自分の中に生まれたモヤモヤを少しもかみ締めることをせず、すぐに吐き出してしまうと、自分の糧として消化出来る筈のモノまでをも見逃してしまうのかもしれない。モヤモヤが生まれた原因はナンなのか。そこには吸収できるモノが隠されていないだろうか。少しくらい立ち止まってみるのも時に必要だろう。

それをしないで、自分が少しでも気に食わないと感じたことを外に吐き出してしまうと、自分自身の言葉によって煽られる。例えば『ムカつくヤツがいるんだよ』って友人に愚痴る。そして、そのとき自分が発した言葉によって、ますますその人物を憎むように煽られていく。そして蝕まれた心は人を嫌い憎むことに慣れていく。簡単に人を嫌い憎むようになっていく。その人物の良い所や心の動きを見ることを忘れ、憎むべきところばかりを探すこと慣れてしまう。

少し話は変わるが、『死にたい』なんていう言葉がある。それは気楽に口にするようなモノじゃないけど、それを口にすることに慣れてしまうときっと恐ろしいことになる。その言葉によって自分自身が煽られて『本当に死ぬ気』になってしまうかもしれない。俺は幸い今までホンキで死にたいと思ったことは無い。心の中で『死んじゃえば楽かな』と思ったことはあるが、それは『全く死ぬ気が無い』のを前提として考えているコトだ。死ぬ気なんか微塵も無いからこそ出てきた考えなのだ。

しかしそれを気楽に外に向けて形にすると、自分自身が煽られてしまうような気がして凄く怖い。だから、今まで生きてきて一度たりとも『死にたい』なんて言葉を他人に向けて発したことは無い。その言葉は俺の中ではタブーなのだ。自分の中のルールとしてハッキリとそう決めているわけじゃないけど、いつのまにかそうなっている。それはこれからも恐らく変わらないだろう。

『死ぬ勇気があるくらいなら生きろ。』

なんていう言葉を言った人と今まで何人か出会ったことがある。俺はその言葉をなんとも無神経な言葉だと感じる。本当に追い詰められて、死ぬことを選択してしまいそうになっている人にとって、死ぬことに勇気なんか必要ないのではないだろうか。むしろ生きることの方に勇気がいるのではないだろうか。生きているという事実が何よりもツライから死に向かう。だから死ぬ。そういう場合は死ぬことに勇気なんか要らない。その人にとっては生きることの方が何よりも恐怖だからだ。

そういう場合、どうしたらいいのだろう。自分の中にその『死にたい』という思いを溜め込み、かみ締めることで、それが増幅してゆくくらいならどんどん『死にたい』と外に向けて吐き出し、気持ちを落ち着ければいいのだろうか。しかし先ほども書いたように、『死にたい』という言葉そのものが自分自身を煽ってしまい、かえって歯止めが利かなくなりそうで恐ろしい部分もある。月並みな話になってしまうが、そのバランスってのを保つのは簡単なようで難しいことだと思う。

『嫌いなヤツの愚痴』を外に吐き出すことによって、それに自分自身が煽られその言葉に慣れてしまうコトで、人を憎むことに自分を慣れさせてしまい自分自身を蝕んでいくことがある。しかし一方で、それを自分の中で溜め込むことも、それはそれで自分を蝕むことがある。そんなときは逆に、嫌いなヤツの愚痴を思いっきり外に向けて吐き出すことによって自分の気持ちを整理できたり、救われたりする。

『死にたい』という言葉も同様で、それを外に向けて吐き出すことによって、それに自分自身が煽られその言葉に慣れてしまうコトで、死にたいという言葉に自分を慣れさせてしまい自分自身を死に追い込んでいくことがある。しかし一方で、それを自分の中で溜め込むことも、それはそれで自分を死に追い込むことがある。そんなときは逆に、死にたいという気持ちを外に向けて吐き出すことで自分の気持ちを整理できたり、救われたりする。

その他にも自分にとってストレスとして働くモノは全て同じ。

そのバランスを保つのは簡単なようで難しくて、人はその狭間で揺れ動きながら生きていくのかもしれない。自分のモヤモヤを外に向けて吐き出すというコト。それが自分自身を救ってくれるときもある。でも、それが自分を煽り蝕むこともある。自分の中に何かモヤモヤが生まれたときにそれを外に向けて吐き出すという行為はどちらの要素も持った諸刃の剣なのだろう。

でも、自分の言葉が人を憎むのを煽ることがあるのなら、人を愛するのを煽るコトだってあるに違いないし、『死ぬこと』を煽ることがあるのなら、『生きること』を煽るコトだってあるに違いない。自分の言葉が自分を煽るなら、それを利用して良い方向に煽ろうってちょっとばかり意識しながら生きてみる。

そして諸刃の剣の危険な部分、つまり『自分を煽る』という性能すらも自分を良い方向に導く力に変えてしまおうって考える。自分の中にモヤモヤが生まれ、外に吐き出したくなったとき、ただ吐き出すのではなくて、そこに必ず何かしらポジティヴな言葉を交えてみる。ウソでも良いから言ってみる。それが自分を良い方向に煽ってくれるかもしれない。

『自分の言葉』ってのは、必ずしも考えたコトを表現する為のだけに存在しているんじゃなくて、その言葉が先に存在していて、後から自分をその方向に動かす力をもっているのかもしれない。もちろんそれは諸刃の剣なのだけど、ソイツを上手いこと利用して、自分を高めていければ良いよな、なんて思う今日この頃。



table     table


table     table



■2004/02/23 [ Mon ] - 幸福とはなにか
今日、道をトボトボ歩いていたら、小さな子供をつれた二人の若奥様の会話が聞えました。それは『出来ちゃったかもー。』、『もうー!?』、『どーしようー(笑)』という感じの会話でした。要するに次の子供が予想よりずっと早く出来てしまったかもしれない、という趣旨の会話でした。

出来ちゃったと言う奥様の方は『もうーまいっちゃったなー』みたいな事を言ってた割りに笑ってたのでとても嬉しいんだと思います。その会話を聞いてて俺の顔まで笑顔になっちゃいました。

そして、その数秒後に通りかかった場所では骨の入った箱を持った喪服姿の男性と、同じく喪服を着た集団が車に乗り込むところでした。誰か亡くなったんですね。何日か前までは生きていた人があの男性が抱えている箱の中に骨となって入っている。

新しく生まれてくる命の話をしていた人が通りかかったそのすぐそばで、命を終えて去っていく人を見てなんとも複雑な気分になりました。でもやっぱり生まれてくることが出来るってそれだけで素晴らしいんだよな、とも思ったよ。あの若奥様のおなかの中にいるかもしれない新しい命にも長くて短い人生が待ってるって思うと、とっくに生まれてきて今まさに生きている自分の命も素晴らしくて、まだ先があるというのもまた有難いことなんだよなって思ったよ。

思春期の頃に『何のために生きるのかー』なんていう歌を歌う歌手を好きになったりしたし、すっかり大人になった今では何か刺激的なことがあるわけじゃないし、子供の頃に思い描いていたような素晴らしい未来とはかけ離れていて、つまらなくて、自分の望み通りの生き方なんか出来てないけど、意外と足元や目の前に見えてないものがあるのかなって思ったりなんかして。だからツマラナイなんて簡単に言っちゃうのかなって。ミスチルの歌でそんな歌詞があったねそういえば。

今、『幸福はどこにある』っていうフランスの精神科医が書いた大人の為の童話、みたいな感じの本を読んでいるんだけどね。その本には主人公のヘクトールという精神科医は、別に病気でもなんでもないのに人生がツマラナイ、みたいな理由で彼のところに来る患者が多くて、しかもそういう患者を相手にすると深刻な本当の精神病を抱えた患者を相手にするよりもずっと疲れるなんて話があるのね。

それで、人にとって幸福ってのはナンだろうって思ったヘクトールは仕事での疲れを癒すのを兼ねつつ『幸福とは何か』というのを探すために旅に出て世界中を巡り、旅先で出会った人々に『貴方は幸せか?』、『貴方にとっての幸せって?』、なんてことを訊き回るって内容の本なの。まだ最後まで読んでないから最終的にどんな話になるのかはまだ知らないんだけど。

既に読んだ部分で印象に残ったのは、ヘクトールが飛行機に乗るときに本当は安い席に座るはずだったのに、手違いで予約数を多く取ってしまった為に高い方の席に移ってもらえないかと乗務員に言われて、そっちに移って彼はとてもラッキーに思い幸せな気分になったの。

でも、彼の隣に座っていた男は(その男はヘクトールとは違い、はじめからその良い席を予約してた人)、それよりもさらに高級な席で飛行機に乗ったことがあるために、その席には満足してないの。同じランクの席なのにヘクトールは大満足で、一方では不満な人がいる。そこでヘクトールは『幸福を台無しにするよい方法は、比較することである』なんていうメモを取る。

これって凄く印象に残った場面なんだよね。他との比較をしてしまうことにとらわれて今自分の目の前や足元にあるしあわせを台無しにしちゃうっつうか、見逃しちゃうっつうか。生まれてきて生きていることは当たり前で、そんな当たり前のことよりも、もっともっと良い人生を送っている人がいるっていう部分に拘って『自分の人生は面白くない』みたいに悲観しちゃうってのと似た感じ。多分この本ではそういうことの象徴としてこういう描き方をしてるんだと思うんだよね。

さっき俺は自分の人生を『ツマラナイ』って言っちゃったけど、そう簡単に言っちゃったら目の前や足元に転がってるモノを目を凝らして見るということを自分から放棄して、ますますツマラナイ人生になっちゃうのかもね。そういうの絶対よくないって思うよ。もちろんこれは誰かに説教たれてんじゃないよ。今の自分が自分に対してそう言ってんの。

なんかこれを書いてて凄く話が膨らんじゃいました。実は最初は冒頭の子供が出来たかもしれない若奥様とお葬式のエピソードだけで終わる予定だったんだけどね。

あー。人生ツマンネー。(←自分に言い聞かせてもまだ全然わかってないさま)



table     table


table     table



■2004/02/23 [ Mon ] (2) - ココア
ココアを飲みすぎるとウンコがココア色になるから気をつけろ!



あー。びっくりしたー。(←なったらしい)



table     table

戻り画像