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人生のドラマと線 - 2004/02/08 [ Sun ]

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今回は以前書いたテキストのリライトです。最初に書いたときに結構評判が良かったのですが、過去ログを紛失してしまって再掲載することが出来なかったモノです。で、微妙にリライトを要望する声もあったりしたのでここに改めて書き直すことにします。趣旨は以前と変わらないけど、記憶だけで全く同じ文面にするのは無理なので以前と文章自体はかなり違いますがご了承ください。

閑話休題。

人々は人生の中で多くの人と出会う。直接自分と関わる人々だけではなく、街を歩いていてすれ違う人、たまたま同じ電車に乗り合わせた人なども含めれば数え切れない人々と出会っている。だけれど、街で一瞬すれ違うだけの人のことなどは覚えていない。偶然同じ電車に乗り合わせた人のことも、その瞬間に顔くらいは見るかもしれないが翌日にはすっかり忘れていることが殆どだろう。

ある日、俺は一人で電車に揺られていた。俺の目の前には女性が座っていた。その横には忙しそうに仕事の書類か何かを引っ掻き回している男性が座っていた。もちろん彼らの名前は知らない。そのとき、ほんの一瞬同じ空間を共有しただけの、俺とはなんの関係も無い人たちだ。俺は彼らを何となく眺めていた。その時にふと思ったことがある。俺は彼らの名前も年齢も何も知らないし、彼らだって俺のことなんか知らない。でも、今のこの一瞬はお互いの『人生の線』が交わっている瞬間なんだなって思ったんだ。

線と線はひとつの点で交わる。小さな一点で交わる。
その点が俺が電車の中で彼らと共有しているこの瞬間だ。



矢印


俺と電車の中で出会った彼らとの人生の線は恐らくはもう二度と交わることは無い。お互いが交わるのは今のその一瞬だけだろう。でもそこで少し考えた。確かに俺と彼らの人生の線が交わるのはこの一度きりかもしれないけど、この一瞬に至るまで、俺の線も彼らの線もずっと続いていたモノなんだなって。そしてその後も続いていくんだなって。生まれたその日から全ての生き物は人生の線を引っ張りながら生きているって考える。そしてその線が交わったり、平行に進んだりする。平行に進んでいる時は、同じ学校に通っているとか同じ職場で仕事をしているとかそんな場合だ。そしてお互いの環境が変われば再び線は離れていく。


矢印


そのとき俺の目の前にたまたま座っていた女性のことを俺は何も知らないけれど、彼女も人生の線を持っているのは間違いない。俺の線と交わっている一点の前にも長い人生の線が引かれている。俺にはその内容を知る術はないけれど、間違いなく何かしらの人生の線がある。彼女が生まれたときには何かしらのドラマがあったかもしれないし、今も人生のドラマの重要な一場面かもしれない。その横に座っている忙しそうに書類を見ている男性だって同じだ。彼だってあるドラマの主人公だ。そう彼の、彼による、彼だけのドラマの主人公。

そして俺は彼らの人生のドラマの線の一点にだけ登場した名も無きエキストラ。もちろん俺は彼らのドラマの中で大活躍なんかしない。ただのエキストラだ。だけど、一瞬とは言え間違いなく彼らのドラマに出演した人物だ。俺にとっての彼らも同様に、俺のドラマの中にちょっとだけ出てきたエキストラだ。俺のドラマの中で、彼らが直接活躍することは無いけど、そのときの一場面で彼らを見ていた俺は今ここに書いていることを考えるキッカケを与えることになった登場人物だ。主人公である俺の思考の流れに少しばかり影響をあたえる役割を持っていたとも言える。

生きていれば孤独を感じることもある。自分が今日死んでも広い世界には何の影響も無いと思うときもある。地球やそれよりももっと大きな宇宙のことなどを頭に思い浮かべて途方も無く広い空間に自分がポツンといる、なんていう風に考えると自分が小さくて弱くて、そこにいてもいなくてもどっちでも良い存在のように思える。つまり下の図のように広い空間にポツンと自分がいる感覚だ。俺は落ち込んでいる時や辛いときにはそういう風に考えてしまいがちだった。






でも俺は電車の中で偶然出会った彼らを見ていて自分の存在は点じゃなくて線だと考えてみようじゃないかって思ったんだ。その線は人生のドラマの線だ。他の誰かに見せるためのドラマじゃない。他人にしてみればとても地味で面白くないドラマかもしれないけれど、生まれたそのときからはじまった自分だけの大切なドラマだ。自分が主人公の自分にしか作れないドラマ。広い空間に小さな点がたくさんあるんじゃなく、多くの人生のドラマの線が交わったり離れたりしているって考える。無数の人生の線がたくさん行き交うって考える。

例えば夏の日に殺した小さな蚊にもその線はあって、巨大な人間に潰されるその瞬間まで蚊は蚊なりにドラマの線を引っ張っていた。その蚊のドラマの最終回は巨大な生き物に潰されるという壮絶なラストシーンを迎えたドラマだ。もちろん多くの人はそんな小さな蚊の生き様なんか関心は無いだろうし、蚊自身もそんなものは意識して生きてはいなかっただろうけど、そこに小さな、でも壮絶なドラマがあったのは間違いない。

例えばエレベーターに乗っているのは自分だけで、向こうからそのエレベーターに乗るために走ってくる人が見えたとする。扉を開けるボタンを押して少しだけ待てば、走ってくるその人はエレベーターに乗ることが出来るけれど、自分はちょっと急いでいてその人を無視してしまうなんて場面があったとする。

エレベーターの扉が閉まってしまえば走ってくるその人は自分にとっては居なくなったのと同じで、小さな点同士である自分とその人は関わることなく離れていくように感じる。けど、その人が人生のドラマの線を引っ張りながら生きているって考えて、自分は彼のドラマの一場面に登場したエキストラなんだなって考えてみる。そうすると、彼のドラマの一場面でちょっだけ気の効くエキストラになってみようかななんて思えてくるかもしれない。エレベーターの扉を開くボタンを押してあげられるかもしれない。小さくてどうでもいいような親切かもしれないけれど、そういう積み重ねって結構大事なんじゃないだろうか。

生き物はお互い点じゃない。線だ。自分と交わっている一瞬以外にも相手の線はずっと続いているモノ。そう考えれば、一瞬だけ出会った人にも優しくなれる気がするんだ。お互いの線が交わった後、線の先についている矢印の先端は離れていっても、交わった部分はずっと交わったままだ。お互いの人生の線を遡ってみれば交わった部分が残されている。それが思い出しもしない一瞬でもお互いの持つドラマが交わったという事実は動かない。他人のドラマに一瞬でも出演しているなんて、それだけでドラマティックじゃないか。

後に多くの人に語られるようなドラマを持った偉人なんかもいるけれど、人生のドラマってのはそれ以外にもいっぱいあって、自分自身もその中の一作品の主人公。他の誰かに楽しんでもらえなくても自分自身しか演じられないドラマがあるってだけで素晴らしい。そしてそのドラマの線が他人のドラマの線と交わった時、それが例えほんの一瞬であったとしてもエキストラとして他人のドラマに出演しちゃえるなんて、それもまた素晴らしくてドラマティックだ。今日も俺は人生の線を引きながら生きている。自分にしか演じることの出来ない自分だけのドラマの線を。

ちょっとした困難にぶつかった時には、自分は小さな弱い点だなんて考えず、長い長いドラマの線の途中にいるって考えてみよう。ドラマってのは困難があるからこそ盛り上がるもの。その困難があってこそ自分が主人公のそのドラマが盛り上がる。その困難は広い空間にポツンとある動かない小さな点に降り掛かった災いじゃない。クライマックスに向けて常に進行している長い長いドラマの線の途中にある最高に盛り上がる名場面だ。そう思えば『イッチョやってやるか』なんて思えるかもしれないじゃない。困難にぶつかったとき俺は自分にそんな風に言い聞かせようと思うんだ。

俺たちは点じゃない。線だ。ドラマティックな線だ。



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