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自分の言葉は自分を煽る - 2004/02/20 [ Fri ]

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モヤモヤしたモノを自分の中に溜め込むとあまりいいことはない場合が多い。だから、時には一杯やりながら愚痴るのも良い。俺のように文章のサイトをやっているならそこにその思いをぶつけるのも良い。そんな風に外に向けて自分の抱えたモヤモヤを形にして吐き出すのは自己防衛として多くの人がやっている行為。

だけれど、時にはそれが自分自身を悪い方向に煽ってしまうこともある。言葉として、文字として、外に向けて吐き出すとそれがさらに自分を煽り、そして蝕んでいくこともある。自分の中に生まれたモヤモヤを少しもかみ締めることをせず、すぐに吐き出してしまうと、自分の糧として消化出来る筈のモノまでをも見逃してしまうのかもしれない。モヤモヤが生まれた原因はナンなのか。そこには吸収できるモノが隠されていないだろうか。少しくらい立ち止まってみるのも時に必要だろう。

それをしないで、自分が少しでも気に食わないと感じたことを外に吐き出してしまうと、自分自身の言葉によって煽られる。例えば『ムカつくヤツがいるんだよ』って友人に愚痴る。そして、そのとき自分が発した言葉によって、ますますその人物を憎むように煽られていく。そして蝕まれた心は人を嫌い憎むことに慣れていく。簡単に人を嫌い憎むようになっていく。その人物の良い所や心の動きを見ることを忘れ、憎むべきところばかりを探すこと慣れてしまう。

少し話は変わるが、『死にたい』なんていう言葉がある。それは気楽に口にするようなモノじゃないけど、それを口にすることに慣れてしまうときっと恐ろしいことになる。その言葉によって自分自身が煽られて『本当に死ぬ気』になってしまうかもしれない。俺は幸い今までホンキで死にたいと思ったことは無い。心の中で『死んじゃえば楽かな』と思ったことはあるが、それは『全く死ぬ気が無い』のを前提として考えているコトだ。死ぬ気なんか微塵も無いからこそ出てきた考えなのだ。

しかしそれを気楽に外に向けて形にすると、自分自身が煽られてしまうような気がして凄く怖い。だから、今まで生きてきて一度たりとも『死にたい』なんて言葉を他人に向けて発したことは無い。その言葉は俺の中ではタブーなのだ。自分の中のルールとしてハッキリとそう決めているわけじゃないけど、いつのまにかそうなっている。それはこれからも恐らく変わらないだろう。

『死ぬ勇気があるくらいなら生きろ。』

なんていう言葉を言った人と今まで何人か出会ったことがある。俺はその言葉をなんとも無神経な言葉だと感じる。本当に追い詰められて、死ぬことを選択してしまいそうになっている人にとって、死ぬことに勇気なんか必要ないのではないだろうか。むしろ生きることの方に勇気がいるのではないだろうか。生きているという事実が何よりもツライから死に向かう。だから死ぬ。そういう場合は死ぬことに勇気なんか要らない。その人にとっては生きることの方が何よりも恐怖だからだ。

そういう場合、どうしたらいいのだろう。自分の中にその『死にたい』という思いを溜め込み、かみ締めることで、それが増幅してゆくくらいならどんどん『死にたい』と外に向けて吐き出し、気持ちを落ち着ければいいのだろうか。しかし先ほども書いたように、『死にたい』という言葉そのものが自分自身を煽ってしまい、かえって歯止めが利かなくなりそうで恐ろしい部分もある。月並みな話になってしまうが、そのバランスってのを保つのは簡単なようで難しいことだと思う。

『嫌いなヤツの愚痴』を外に吐き出すことによって、それに自分自身が煽られその言葉に慣れてしまうコトで、人を憎むことに自分を慣れさせてしまい自分自身を蝕んでいくことがある。しかし一方で、それを自分の中で溜め込むことも、それはそれで自分を蝕むことがある。そんなときは逆に、嫌いなヤツの愚痴を思いっきり外に向けて吐き出すことによって自分の気持ちを整理できたり、救われたりする。

『死にたい』という言葉も同様で、それを外に向けて吐き出すことによって、それに自分自身が煽られその言葉に慣れてしまうコトで、死にたいという言葉に自分を慣れさせてしまい自分自身を死に追い込んでいくことがある。しかし一方で、それを自分の中で溜め込むことも、それはそれで自分を死に追い込むことがある。そんなときは逆に、死にたいという気持ちを外に向けて吐き出すことで自分の気持ちを整理できたり、救われたりする。

その他にも自分にとってストレスとして働くモノは全て同じ。

そのバランスを保つのは簡単なようで難しくて、人はその狭間で揺れ動きながら生きていくのかもしれない。自分のモヤモヤを外に向けて吐き出すというコト。それが自分自身を救ってくれるときもある。でも、それが自分を煽り蝕むこともある。自分の中に何かモヤモヤが生まれたときにそれを外に向けて吐き出すという行為はどちらの要素も持った諸刃の剣なのだろう。

でも、自分の言葉が人を憎むのを煽ることがあるのなら、人を愛するのを煽るコトだってあるに違いないし、『死ぬこと』を煽ることがあるのなら、『生きること』を煽るコトだってあるに違いない。自分の言葉が自分を煽るなら、それを利用して良い方向に煽ろうってちょっとばかり意識しながら生きてみる。

そして諸刃の剣の危険な部分、つまり『自分を煽る』という性能すらも自分を良い方向に導く力に変えてしまおうって考える。自分の中にモヤモヤが生まれ、外に吐き出したくなったとき、ただ吐き出すのではなくて、そこに必ず何かしらポジティヴな言葉を交えてみる。ウソでも良いから言ってみる。それが自分を良い方向に煽ってくれるかもしれない。

『自分の言葉』ってのは、必ずしも考えたコトを表現する為のだけに存在しているんじゃなくて、その言葉が先に存在していて、後から自分をその方向に動かす力をもっているのかもしれない。もちろんそれは諸刃の剣なのだけど、ソイツを上手いこと利用して、自分を高めていければ良いよな、なんて思う今日この頃。



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