topimg
思いやり


table     table



なんだかふと思った事。


心がきれいだと他人を思いやれる?


んー。


なんだか逆のような気がして来たんだよね。


つまり。


他人を思いやる事で心がどんどんきれいになっていくんじゃないかって思うようになったんだよな。心がきれいじゃないと他人を思いやれないわけでは決して無くて、今現在すさんでいたって他人を思いやろうとする事は出来るって。


そう言うと必ず、それは偽善だっていう意見が出てくる。それはわかるし、俺もそんな迷いってのはあった。だから、思ったことを思いっきり言ってしまう事を結構してきた。けど言いたい事をズバズバ言って満足する人もいるだろうけど、俺の場合はそゆことをした後って心に何かシコリが残る場合が多い。自分が正論を言ってる自信があっても何故かシコリが残るんだよ。言いたい事を言っているのにスッキリしないの。それが今まで何故だかわからなかった。


でもちょっと前に友人にこんな事を言われた。


『いくら正論でももっと状況や相手を見て言わないとただ相手を傷つけるだけだ。おまえの言っているのは正論である事が多いのは確かだ。けれど、もっと人の気持ちに気を配るべきだ』


俺はその言葉にかなり凹んだ。シコリってそれだったのかと自己嫌悪になったりもした。そこで俺は少し立ち止まって考えるようになった。この辺の話題は以前デイズで書いたことだけれどさ、とにかく相手への配慮を最優先するよう心がけるようにした。心がけてもまだ出来てない部分も多々あるが、とにかく心がけるようにはなった。


自分への反論の意見に対して沸き起こる俺自身の感情が以前とかなり変わったという事実もあるんだよね。何かしら反論を受けると今までだったら無意味にイラついてた。自分に非があったとしても、それに気がつきながらイラついてたの。いつも数日経ってクールダウンするんだけど、反論を受けた瞬間はやっぱ無差別にイラついてたね。


だけれど相手が反論したときの気持ちを汲み取る努力を以前よりもずっとずっとするようにしたら、いくら反論への返信であっても随分と楽な気持ちで返せるようになってる自分がいたんだよ。その反論してきた人の意見にたとえ同調出来なかったとしても、『反論したくなったその人の気持ち』はわかるなあって思えるようになったの。


上記のような議論の場でだけでなく、日常のちょっとした会話やメールのやりとりでも少し変化が起きつつある。例えばメールだったらとにかく自分の事はさておき、相手の気持ちを重んじたメッセージを送る事が増えた気がする。


自分のことはさておき・・・・なんて大げさなものじゃなくても良いんだよね。一言でも良いのよ。相手を思いやる言葉を最後にひとつ付け加えるだけで随分と気持ちが楽なる。この場合、『気の効いた一言』なんて大それたもんじゃなくて良いの。なんてこと無い一言でじゅうぶんなのよね。


相手に『心配してくれてありがとう』なんて言われるとものすごく嬉しく感じる自分がいる。それによって他の人にもなんだか優しく接する事が出来るようになる。そんな事から思ったわけ。心がすさんでいると他人を思いやれなくなるんじゃなくて、他人を思いやる事を意識的にする事で自分の心は自分自身できれいに出来るってさ。


偽善? それは偽善なのかな? と考えた。優しいぞ俺! と自己満足に浸っているだけなのかな? とも考えた。冒頭で述べたような『偽善』ってモノに対する迷いがあったからね。けど、今日ふと違う気がしたんだよ。


他人を思いやって自己満足する部分ってのは確かにあるけれど、それだけじゃない。人に優しく接すると、自分の気持ちが楽なって本当の意味で優しい感情が湧いてくる。人を思いやる心ってのは他人を助けるだけでなく、自分自身も助ける事になるのかもなって思った。人間ってのは元々そういう仕組みになってるんじゃないかって思った。


すさんだ心は自分自身で意識的にきれいに出来るんだ。


それはただの願望かもしれないけれど、俺はそう思いたい。



table     table
□■BACK■□HOME■□